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Children's Books Going Overseas from Japan

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第一部 出版の塔

その2 翻訳出版件数の多い国と地域

コラム(中国)

中国の旗日本の児童書を翻訳した中国の人々 河野孝之

中国における日本の児童書の翻訳の歴史を回顧する時に最初に記すべき人物に政治家・ジャーナリストだった梁啓超(1873~1929)がいる。康有為とともに清朝末の政治改革運動を率先するが、西太后ら保守派に破れ(戊戌政変)、日本で亡命生活を送る。居住した横浜で「新民叢報」や「新小説」などといった雑誌を発刊、前者に第2号より梁啓超が翻訳連載したのが「十五小豪傑」(1902~1903)だ。これはジュール・ベルヌ原作で森田思軒訳の『十五少年』(1895)を重訳したもので現在日本では「十五少年漂流記」や「二年間の休暇」として知られている。梁は、小説は社会改良の武器と考えていた。中国を改良するため教育を重視し、児童にふさわしい読み物の必要性を唱えていた。漂流した少年たちが、自分たちの力で生活し、自治を築いていく姿に、破壊から建設に向かえと主張する梁の「新民説」を体現する作品としてもとらえていたようだ。いわばきわめて政治的な啓蒙性をはらんだ翻訳だったが、その冒険小説としての面白さから中国における児童文学の勃興を促すものとなった。

この当時、日本語からの重訳は枚挙にいとまがないが、かの魯迅も日本留学時代に同じくベルヌの「月世界旅行」や「地底旅行」を日本語訳からの重訳で翻訳している。これは隣国という近さと明治維新によって近代化し、同じ漢字を利用する日本語からの受容が手っ取り早かったことがある。ちなみに「童話」という用語も日本から中国に受容された言葉である。

また中国最初の童話集に1908年刊行開始の「童話」叢書というものがある。上海の商務印書館から刊行され、孫毓修という編集者によって編纂されたもので、のちに中国の代表的な小説家となる茅盾も編集に携わることになる。この叢書の表紙や体裁は、巌谷小波が刊行していた「世界お伽噺」と似ているところがあり、こういったところにも日本からの影響が伺える。

蜜月といったこのような関係性も日本の中国侵略といった不幸な歴史もあって途切れる。1949年の中華人民共和国成立後には、日中間の国交はないものの民間交流があり、石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』やいぬいとみこの『ながいながいペンギンの話』などが翻訳出版された。しかし1966年からの十年動乱とも言われる文化大革命によりそういった微々たる動きも途絶えた。

文革終了後の1980年代に入ると活発に外国の児童文学作品が翻訳されるようになる。その時に注目すべき存在として登場した翻訳者が、安偉邦(1930~1991)だった。この時期、なぜか清末時期と同じように欧米の作品が日本語版からの重訳という形で出版されたのだった。安偉邦は1981年にドイツの作家・プロイスラーの『大どろぼうホッツェンプロッツ』を日本の中村浩三訳から、またガネットの『エルマーのぼうけん』を渡辺茂男訳から重訳し出版したのだった。このほか、日本の代表的な児童文学作家の作品を続々と精力的に翻訳した。椋鳩十、古田足日、松谷みよ子、安房直子、大石真、佐藤さとる、神沢利子などなど現代児童文学作家をほぼ網羅するような勢いだった。

安は、山東省生まれで小学校時代は日本統治下であった大連で過ごし、二年だけだったが大連の日の出小学校に通う。日本語の素養はそのころ身につけたようだ。1953年に北京で小学校教員となり、やがて児童文学を志すようになる。そのころ古本屋で日本文学の書籍が大量に出回ったので、購入してむさぼるようにして読んだという。中学教員を経て児童書専門出版社の編集者となったのが1979年のこと、出版社にまさしく死蔵されていた日本の出版社から寄贈されていた児童書を読み、やがて翻訳紹介することになる。1984年に河北少年児童出版社に転じ編集長になり、引き続き翻訳者として活躍しつつ中国と日本の児童書関係者の交流組織の樹立を提唱し、1989年に日本と中国(上海)に交流センターが成立することになる。北方センターの設立に奔走していた中での61歳での急逝が惜しまれる。

この安偉邦が翻訳した安房直子作品に感動して1988年に私費での日本留学をはたしたのが、現在、日本の児童書の翻訳者として活躍している児童文学作家の彭懿である。売れっ子童話作家として活躍していたさなかでの日本留学であった。編集者でもある彭懿は、日本児童ファンタジー選集や安房直子作品集といった叢書を企画刊行し、近年では絵本の紹介を精力的におこなっている。彼の翻訳は作家らしく読みやすさに定評がある。中国の童話作家でベストセラー、ロングセラー『小布頭奇遇記』の作者である孫幼軍は、中川李枝子の『いやいやえん』の翻訳をしている。また彭懿と同時期に日本留学を国費ではじめてという児童文学研究分野ではたしたのが、評論家・研究者の朱自強である。大学教授としての激務をこなしながら翻訳も手がけ、その堅実で安定した翻訳力には定評がある。

日本に亡命した梁啓超から日本占領地で日本語を学んだ安偉邦、そして児童文学専攻として日本に留学した人々。翻訳者像の様変わりが翻訳受容の変化を如実に示している。

かわの たかし
(日中児童文学美術交流センター事務局長)