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国際子ども図書館主催の展示会のお知らせです。

講演会「占領期の子どもの本と文化」

講師:鳥越信氏(聖和大学大学院教授)

どうも皆さん、こんにちは。ただ今、ご紹介に預かりました鳥越でございます。私は、今日、プランゲ文庫展が開催されることになりまして、それに関わる形で占領期といいますか、戦後すぐの日本の子どもの本や文化について話をせよということで参ったわけです。プランゲ文庫との関わりと言う点で申しますと1998年12月にプランゲ文庫展及びシンポジウムが早稲田大学で開かれたことがありました。その時も私に講演の依頼がありまして、私は『戦後児童文学史の空白—GHQの言論統制を考える』というタイトルで、子どもの本中心に話をしました。その内容は、早稲田大学・立命館大学がまとめました『占領期の言論・出版と文化—<プランゲ文庫>—展・シンポジュウムの記録』という冊子に出ております。

その時から、4年が経ちました。4年間にこのプランゲ文庫を巡る戦後すぐの子どもの資料に関しまして、いくつか前進した局面がありました。それは、先ほどメリーランド大学館長から、お話がありましたように、目録の作成とか或いは雑誌や新聞のマイクロフィルム化です。そういう形で既にいくつか、具体的な形になって日本にも入ってきています。特に子どもの本との関わりという点で申し上げますと、1998年12月の時点では、まだプランゲ文庫についての知識は、そういうものがあるということは知っておりましたが、具体的な中味についてはほとんど解明されてなかったという時期に最初の展示会が開催されたという事情がありました。

ですからその時は私自身もプランゲ文庫について直接、言及するということは出来ませんでした。その講演で、私が主に何について話したかを言いますと、その当時、占領軍によるいわゆる検閲があると同時に、今度は日本の出版社や作家、画家の側に検閲を受けなくてはならないということから生じる一種の自主規制というものが起こります。その自主規制によって、どういうふうに出版物が変貌していったか、そういう具体的な事例と致しまして、新美南吉のケースをとりあげました。
新美南吉のいくつかの作品、例えば『ごんごろ鐘』とか『うた時計』とか『いぼ』などを、今申しました自主規制によって、どういうふうに変えてしまったかということを具体的にお話をしました。

ところが、その後4年間の月日が経つうちに、いくつかの具体的な事例が出てきました。北海道の北星学園大学で教鞭をとっておられます谷暎子先生という方が、おられます。谷先生は、プランゲ文庫の児童書整理にも関わってこられた方です。私が責任編集でまとめた『はじめて学ぶ日本の絵本史』という本の第3巻目が、戦後から現在までの日本の絵本という内容ですが、その第3巻に谷先生が『占領下の絵本と検閲』というタイトルで、初めてプランゲ文庫との関わりの中で、当時のGHQが日本の子どものための出版物をどういうふうに検閲して、どういうふうに具体的にチェックして、どういうふうに発行停止にしたりあるいは訂正したりしたかということをお書きになりました。興味のおありの方は、是非、その本を手にとって見ていただきたいと思います。その論文中で谷先生が具体的にお取りあげになった本は全部で5冊ありました。

谷先生によりますと、プランゲ文庫が現在、所蔵している児童書は確か全部で8,000タイトル位ありまして、そのうちのおよそ1,600タイトルが絵本です。その中で、発行停止や一部の箇所をこのように訂正せよと指示された本が、5冊ということです。それ以外は、一応出版が許可されたようです。ですから、数からいいますと非常に少なかったと言ってもいいのかと思いますが、しかしそのために、日の目を見なかった絵本が、現実にあったことは事実です。

そこで問題は、どういう点でその絵本が、絶版になったかということです。私が講演した新美南吉のときの自主規制による問題点というのは、主に軍国主義的な表現の点でした。つまり新美南吉は、戦時中にも作品を書いておりましたので、どうしても戦時中の用語、戦争用語とでもいいますか、そういうものを使っているわけです。戦後はそういう言葉は使ってはいけないということで、それを他の言葉に変えていくというのが、多かったわけです。それだけではなくて、例えば復讐(敵討ち)が、だめだというのもありました。問題になりました5冊が、どういうものだったかをご紹介します。

 

『乗物ノイロイロ』   文:武田 幸一   絵:今竹 七郎

『カシコイアリ』    文:江口 渙    絵:鈴木 寿雄      

『ウシカフムスメ』   文:吉田一穂    絵:堀内 規次    

『トリノアパート』   文:奈街 三郎   絵:安 泰       

『アメリカのこども』  文:坂西 志保   絵:吉村 順三、杉原 澄子

 

この中で『カシコイアリ』の場合は、蟻が蟻地獄に対して復讐をするという話です。これは、戦争に負けた日本がやがて、また力をつけてアメリカに対して敵討ち、復讐をするということにつながる恐れがあるというように判断されたのではないでしょうか。それで、こういうものは、だめであるとなったようです。

それから、『トリノアパート』は、検閲官にコミュニストのプロパガンダを思わせる話だと指摘された文書が残っているそうでありまして、要するに今で言いますとホームレスというような、非常に生活に困っている人がやむを得ずによその家に無断で入り込んで、事実上、家に住み着いてしまったというか占領してしまったというお話です。これは、戦後の混乱期には実際にあったようなことなのです。けれどもそういうことが子ども向けに書かれるということは、貧しい者は勝手にとってきてもいいのだというコミュニストのプロパガンダに通じるものがあるということで、発行禁止となりました。しかし民間教育情報局の教科書担当官者の意見を入れ、一転して発行許可になったそうです。理由の一つは、多くの読者は検閲官のような解釈をすることはないだろうということでした。

『アメリカのこども』は、これは理由がはっきり残っていないらしいのです。谷先生の推測では、この絵本の中には、日本とアメリカの国旗が2本、同時に描かれています。多分、それが検閲にひっかかったのではないかと思われています。日本とアメリカの国旗を対等に描くなんていうのはもっての外で、日本はアメリカに負けた国なのだから、一歩下がっていろということでは、ないでしょうか。

今の私達の感覚、評価から考えますと信じられないような、おかしいのではないかと、皆さま方もお感じになられるのではないかと思います。私も谷先生の論文を読んで初めて、検閲が具体的にどういう風に行われたかということがわかりました。そのため、いろいろ気が付いた点や勉強することがたくさんありました。

私はまず、一つの問題としまして、5冊の中に『桃太郎』が入っていないというのは、一体どういう意味なのかということを考えました。私は何年か前に、『桃太郎の運命』という本をNHKブックスから出版しています。この本の内容は明治以来現在まで『桃太郎ばなし』が子どものために、色々出版されています。絵本だけではなくて、民話集の形や或いは教科書にも載っています。他には、歌の形、紙芝居、アニメなど色々な形で子どもたちの手に手渡されてきました。その桃太郎が時代によって、作者によって様々に姿を変えてきたという歴史を私なりにまとめた本だったのです。

その本をまとめました時に、一つ気づいたことがあります。1945年から5年間、桃太郎は出版されていません。絵本という形ではもちろんですが、『日本民話集』という本の中にも『桃太郎』は、入っていません。私は、どうしてだろうと考えました。

『桃太郎』は、戦争中に侵略主義の御先棒を担がされました。例えば、桃太郎が海軍航空隊の隊長になって、(鬼畜米英つまりアメリカ、イギリスは鬼や畜生であると日本人は教育されてきた、そのアメリカ人の鬼が住んでいる島つまり真珠湾)ハワイに向かって桃太郎率いる海軍航空隊が攻め込んでいくというふうなアニメーションが出来たりしています。そういうように桃太郎は、侵略主義の先頭に立たされるという非常に不幸な歴史を背負っていたわけです。従って、戦争が終わったときに桃太郎というのは、侵略主義のシンボル、軍国主義のシンボルのようにイメージされてきましたから、子ども向けの本の中から姿を消していたのではないかと私は思っていたのです。もし『桃太郎』が検閲のためにGHQに提出されたと仮定するとGHQはどういう対応をしただろうかと想像することは、私にとって非常に大きな興味がありました。ところが、私が調べた範囲では、出版された『桃太郎』は、1冊もありませんでしたので、やっぱりこの時期は、出版されなかったのかと思っていたのです。しかし、今日、展示会を見ておりましたら、『桃太郎』が1冊あったので驚きました。1947年に出ている絵本で、林 義雄さんが絵を描いている。ただ、あれは表紙だけしか見えてないので、中味がどのような『桃太郎』かは、わからないのです。私は、是非中身を見てみたいと思いました。あの本は、フリーパスというか別にチェックされないで出版されているところを見ると、軍国主義を謳歌するような『桃太郎』ではないことは確かでしょう。しかし、当時のイメージとしては、『桃太郎』は、侵略主義と密着しているイメージがありましたので、よく1947年という時点で、出版できたものだと私は改めて感心しました。あの本、1冊だけなのでしょうか。1,600タイトルもあるわけですから、他にも桃太郎絵本があったのではないか。或いは、絵本以外、日本の昔話のような本の中に『桃太郎』が入っていたのかどうか、これも是非、これから全体像がもっとはっきりわかってくれば、明らかになってくるのではないかという思いがしました。

谷先生の論文は、日本絵本史の戦後編の1編としてお書きいただいたわけですから、当然、取り扱われている対象は、絵本に限定されています。そうしますと絵本の場合は、単に物語の問題だけではなくて当然、絵の問題も絡んできます。絵本の絵の検閲は一体、どうなっていたのかということも、私にとって大きな問題意識でした。

先ほども申しましたように、『アメリカのこども』という絵本の場合は、国旗の絵が問題になっています。ところが、他の作品の場合はどうかといった場合に、絵はほとんど問題になっていません。絵が一番、問題になったのは、『乗物ノイロイロ』です。これは、問題になるのは当然のことです。何故かと申しますとこの本が出版されたのは、1940年(昭和15年)、戦争中に出版されている本なのです。その本をそのまま、重版で出そうとしたのです。これは、GHQの検閲とかいう以前の問題です。私も昔、出版社で編集をしていた経験がありますので、わかりますが、これは、出版社として或るいは、編集者としてこういうことをやること自体が考えられないことです。戦争中に出していた絵本を戦争が終わってそのまま、重版するなんて全く非常識も極まれりという出版物であります。そのために当然のことですが、満洲鉄道で走っていた汽車の絵が描いてあったりするわけです。ですから、これが問題になるというのは、当たり前のことです。検閲があろうとなかろうとこの絵本は、世の中へ出ては困る絵本でして、この絵本については、例外的なものと考えてもいいではないでしょうか。

そういうことを考えますと、絵本といいながら絵が問題になったというケースは、極めて少ないということになります。これは、一体、どういうことだったのかと考えました。

1945年から1950年位までの間の日本の出版文化というのは、仙花紙時代と言われています。先ほどのラウリー氏の講演でも紙が劣化しているという話がありましたように、"スローファイヤーゆっくりした火事"という例えのように紙が劣化していく。仙花紙というのは今でいう再生紙のことなのです。当時、日本は、資材がとても不足していましたので、新しく紙を作るなどということはできない。それで、新聞とか雑誌とか本とかそういうものを溶かして再生紙として活用する。とにかく薄くて、裏が透けて見えるどころか、所々、繊維が足りなくて穴が空いていたりするような紙なのです。それで、そこに印刷しますと、裏までインクが染みとおって、裏からでも読めるくらいです。そこにまた、裏側の文字を印刷するわけですから、両側の文字がごっちゃになって、非常に読みづらい。また先ほど言いましたように穴が空いたりしますと、そこの部分に本当は、文字が入らなくてはならないのに、飛んでしまったりして、とにかく非常に粗悪な紙を使っていました。紙だけではありません。インク、印刷資材、その他本当に物がなかった頃でしたから、作られた本は非常に粗末の一言に尽きました。

1945年に戦争が終わった後、仙花紙に印刷された本や雑誌はまるで、羽が生えたように、飛ぶように売れました。今の若い方々には、信じてもらえないと思いますが、新しい本が配本されて「明日から売り出しますよ」と小売店の店頭に貼り紙が出ますと、その本を買うために徹夜の行列ができたのです。そして、本によっては、プレミアムがつき、定価の3倍とか5倍の値段でも、尚売れるという具合に売れたのです。

ということは、日本の国民は、戦争中から戦後にかけて本当に食糧難といいますか、飢餓的な生活を強いられてきたのですが、その食料に飢えていると同時に、文化にも飢えていたと思います。そして、そういう文化に飢えた人たちの手に次々に渡っていった子どもの本の内容を見てみますと、物語とか雑誌の中には、私達がよく言う一種の熱っぽさといいますか、一種の熱気が漂っていました。つまり、あの戦争中に息の根を止められていた児童文学が、また息を吹き返して、そして軍国主義とは全く価値観の違う自由で平和で民主的な新しい時代をこれから子どもたちと一緒に作っていくのだという熱気が、どの作家のどの作品にも溢れんばかりに満ち溢れていました。

ところが、同じ時期に出た絵本を見ますと、そういう熱気がありません。これは、非常に不思議なことです。何故だろうと私は思います。答えは、わかりません。確かに、終戦直後に出た絵本のタイトルだけをみますと、例えば『マッカーサー元帥』とか『アメリカの兵隊さん』『ABC絵本』とか、たくさんあります。しかし、これは一つの風俗現象みたいなものであって、別に熱っぽさとかとは関係ありません。それは、実際に手にとってみたらわかります。そこからは、何の熱っぽさも伝わって来ません。

昨日までの日本の軍国主義権力に代わって占領軍がやってきて、その占領軍のトップにいるのがマッカーサー元帥であり、その占領軍の兵士としてやってきたのがアメリカ軍の兵士達でありと、ただそういう絵が描いてあるだけのことであって、そこにこれからの未来を託せる熱気のようなものが感じられるかと言ったら、全く感じられません。一体どうしてかという理由は、本当に私もわかりません。これは、戦後の児童文化史、或いは子どもの本の歴史を考えていく際の一つの大きな宿題になるのではないかと思います。

絵本については、谷先生が、具体的な事例を明らかにして下さっています。絵本以外のものはどうかと言いますと、これはまだ依然として明らかにならないまま、闇に眠っています。その絵本以外の児童文学で、占領下の検閲との関わりが、有名だったのは竹山道雄の書きました『ビルマの竪琴』という作品でした。これは雑誌『赤とんぼ』に長い間、連載されていました。その連載していた『赤とんぼ』が、ことごとく検閲にひっかかり、そして何回も何回も書き直しをさせられたそうです。その話は、当時『赤とんぼ』の編集長で原稿を直接、竹山さんから受け取り、割付をし、直接進駐軍の担当者と検閲をめぐって遣り合ってきた藤田 圭雄(ふじた たまお)さんという方が、よくお話になられていたので、知っておりました。藤田 圭雄さんは、編集者であったと同時に童謡詩人としても活躍されましたし、また童謡論とか童謡史の研究者としてもいろいろ業績を残された方です。

この藤田さんは、「自分の手元にその時のゲラ刷りとか生原稿が残っている、それはいずれ、機会をみてしかるべき時期に寄付をしてこれからの研究者達がどういう点がどういうふうに問題になったのか、その結果どういう風に変えられたのかということがわかるようにしたいと思っている」ということをずっと言っておられました。ところが、早稲田大学でプランゲ展が開かれて今日までの4年の間に、藤田さんが亡くなられまして、その後、この資料が一体どこにいったのかということが、私にもわからないのです。多分、神奈川県の近代文学館に入っているのではないかと思っていますが、はっきりはわかりません。でもまさか、捨てられたと言うことは、ないと思いますから、必ずどこかにあるはずです。いずれ、『ビルマの竪琴』に関しては、明らかになる時がやってくるだろうと期待をしております。

1998年のプランゲ文庫展から折あるごとに戦後の検閲問題について私なりに色々、考えておりました。特に、私は今日のこの展示会に呼んで頂くことになりました後、どういうお話をするかということについて私なりにああでもない、こうでもないと色々考えておりました。2、3日前から一応、(紙を出して)このように柱だけは考えました。ところが迷いが出てきまして、どうもこれでは違うのではないかという気がしてきて、ずっとこの3日間くらいは、悩んでいました。今日も、大阪から東京に来る新幹線の中でずっとそのことを考えていて、未だに私なりにはっきりした結論が出ないままにここに立っているのです。どういう点で迷いが出たかをお話します。

『ビルマの竪琴』に関して言いますと、竹山道雄さんは、もう亡くなられていますが、検閲が行われていた時代はもちろん、健在でした。そしてその後も、何年も健在でした。『ビルマの竪琴』は、単行本として繰り返し繰り返し出版され、その後、文庫本になったり新書本になったりしています。最初に原稿にお書きになったときは、当然、作者としては、そういうふうに書きたいと思われて書かれたに違いないわけです。ところが、それが実際に雑誌上に活字となって出て行くまでの間に、検閲という問題がありました。もちろん藤田主雄さんは、作者の代役として一生懸命交渉はしたけれども、だめで、「ここは削れ」とか「ここは書き直せ」とかって言われているわけです。そうすると当然、作者の中には不満と言いますか、「それは困る、自分の本当に言いたいことがそれでは、ゆがんでしまう、うまく伝わらない」という思いが、私はあったのではないかと思います。検閲が終わって、単独講和でしたけど、サンフランシスコ条約で日本が独立した後、竹山さんご自身がそれを元のものに直してしまうことは、極めて簡単なことだったと思います。ところが、それが行われた形跡がないのです。これは、竹山さんだけではなくて、他の場合も同様です。

先ほどお話しました新美南吉とも関わってきますし、それから今日の展示会で見たものの中で言いますと、壷井栄さんの作品もやっぱりそうです。

壷井さんに関してお話しますと、講談社から出版されました『壷井栄児童文学全集 全4巻』があり、その編集を私が担当しています。私と古田足日(ふるた たるひ)という児童文学者がいますが、二人で編集の仕事をさせて頂きました。その時は、壷井栄さんはもちろん健在でした。私達は、毎日のように壷井家にお邪魔して、壷井栄さんと打ち合わせをしながら、どういう全集を作っていくかと言うことを話し合ってきました。もしその時、壷井さんご自身が、検閲で心ならずも削られたという箇所があって、自分の言いたい本当の思いが伝わってないという気持ちがあるとしましたら、元に戻すということは、非常にたやすいことでした。また、私や古田足日にしても『全集』と銘打って世の中に出すのだから、できるだけ元に戻して出版したいわけです。ところが、ご本人は全然そういうことをおっしゃいませんので、私達も検閲で削られたとかそういうことを知らないできています。壷井さんも今は、亡くなってしまわれました。そして今後、このプランゲ文庫が、もっともっと全体像が明らかになって、壷井さんの童話に関しても、どういう箇所がどういう風にチェックされてどういう風に原作とは変わっていったのかということが、明らかになる時がいずれ来ると思います。しかしそうすると私達が作った全集、それもその全集は、私達が勝手に作った全集ではなくて作者自身が、いわば校閲しているというか参画して作ってきたその全集とは、違った作品が登場してくるということになるわけです。そうしたことを、一体どう考えたらいいのかということが、私の中で非常に大きな迷いとして湧き上がってきたわけなのです。

そこで、私は原点に戻った方がいいのではとないか思いまして、日本の子どもの本に関する言論統制の歴史を改めて考え直してみました。1868年の明治維新以後の歴史に限ってのことですが、日本で初めて言論統制によって発行停止処分に追い込まれましたのは、1895年(明治28年)のことです。この時に、取り締まりの対象になった雑誌が2種類ありまして、一つは『少年園』、もう一つは『小国民』です。どちらも子どものための月刊雑誌です。この二つの雑誌が、たまたま1895年(明治28年)に発行停止処分になりました。

実はこの明治28年という年は、日清戦争が終わった年でした。日本と当時清国と呼ばれていた中国の間で戦争が2年間に渡ってありました。日本では、日清戦争と呼んでいる明治27、28年の戦争が終わるに際して、日本と清国の間では、色々な条約が結ばれました。そして条約締結に対する意見が国内には当然、色々ありました。その意見とは「日本が少し弱腰すぎるのではないか」とか「日本と清国の二国間の交渉で十分なのに、それ以外の国が横から嘴を入れてくるのは、おかしいのではないのか」とか色々です。そういう当時の時代状況を反映して、今申し上げた二つの児童雑誌が、条約締結に対する論説を掲載したのです。そうしましたところ、『少年園』は、政論掲載つまり政治的な文章を子どものための出版物に載せてはいけないという理由で発行停止処分になりました。『小国民』は、治安妨害という理由で、なぜそれが治安妨害になるのかわからないのですが、同じく発行停止処分です。その後の歴史は、言論統制がひたすら続いていたと言ってもいいくらいです。

大正の終わりから昭和の初めにかけて興ったプロレタリア児童文化運動というのがありました。その時、プロレタリア児童文化運動の中で出版された『少年戦旗』という雑誌がありました。この雑誌などは出版される度に発禁の処分を受けました。この雑誌はあるとき復刻されたのですが、その時、どうしてもみつからないものが2冊位あり、その後も発見されませんでした。プロレタリア児童文化運動の場合は、治安維持法という法律があり、その法律に基づいて言論統制が行われたのです。

続いて戦時下の言論統制です。1938年(昭和13年)、中国への侵略戦争の翌年になります。この時は、国家が直接乗り出してきました。現在の自治省の前身になります当時の内務省の警保局というところが言論統制のための「児童読み物改善に関する指示要綱」というものをこしらえました。そして、子どもの本の出版社やそこで働いている編集者達を一堂に集めて、これからは、こういう方針でいくとその要綱を手渡して、それに基づく検閲を開始したわけです。その言論統制は、本当に細かいところまで出来ていました。活字の大きさから挿絵の問題から懸賞のかけ方とか、もちろん内容上のことなど実に細かい統制だったのです。その当時の文献、どういうところを削らせたかとか、どういうところがだめになったかとかがわかる検閲の証拠資料が、現在の自治省の地下倉庫に眠っているらしいのです。

この当時の言論統制で有名なケースは、中原純一さんという画家の例です。中原純一さんは、当時『少女の友』という雑誌の表紙を毎号、描かれていたのです。中原純一さんの絵というのは、およそ軍国主義を謳歌するような風潮とはまるで反対の絵ですから、当局から睨まれて、「この絵は何とかせい」とひどい弾圧を受けたそうです。そういう記録が内務省に残っているそうで、これは絶対に廃棄処分にしないで、その資料を公開して欲しいと私は思っています。いずれそういう時期がひょっとしたら、来るかもしれません。

戦時下言論統制が行われた時に、日本の子どもの本の歴史上では、非常に不思議なことが興りました。それを私達は、復興現象、ルネッサンスと呼んでいます。昭和初めから12、3年位までの10年間、日本の児童文学は冬の季節と呼ばれていて、非常に振るわない時代、時期でありました。ところが、ひとたび、この言論統制が行われるや否や復興現象という春が到来し、童話作家達は、ストックをはたいてもはたいても、追いつかないという位の好景気に恵まれる状態が生まれたのです。どのくらい破天荒な状態が生まれたかということを、ごく一部の例で申します。

例えば、新美南吉の場合です。1942年(昭和17年)当時、彼は全くの新人作家で、始めての彼の出版物は『良寛物語 手鞠と鉢の子』という良寛和尚の伝記物語でした。なんとこの本が初版10,000部です。そして2刷りが10,000、3刷りが10,000、4刷りが5,000、つまり35,000部売れているのです。新人の第1著作物です。それから同じ時期に小林純一さんという童謡詩人が新人としてデビューをされました。そして最初の詩集『太鼓が鳴る鳴る』という子どものための詩を集めた本を出版しました。これが何と初版10,000、そして2刷りが3,000部です。13,000部、売れているのです。現在、日本の子どもの本が、どの位出版されているかということを、皆さんご存知でしょうか。例えば、新人がある出版社から本を出す場合に、普通の本でしたら、初版3,000部です。絵本で、初版5,000部です。童謡なんかは、出版してくれる出版社はゼロです。新人のものは、全く出してくれません。童話だったら、中身がいいかなと思うと出してくれますが、初版は3,000です。売れれば、もちろん重版になります。しかし、売れなければ3,000で終わりです。ところが、当時、新人童話作家としてデビューした新美南吉は35,000、童謡詩人としてデビューした小林純一は13,000、これは本当に考えられない数字なのです。

そこで、この復興現象は何故興ったかということを考えますと、この当時の言論統制のやり方が非常に狡猾だったからだと言えます。つまり、言論統制する本当の目的は、日本の子どもたちを軍国主義に駆り立てるためです。ところが、頭から軍国主義のためにと強制的に言ってきますと、作家とか画家とか編集者とかいわゆる知識人たちの反発を買うだろうということが、わかるわけです。ですからこの人たちの反発を買わないようにするためには、どうしたらよいかということが、考え出されました。

初めに、まず俗悪なものを取り締まるということを考えました。それで、これは今も昔も同じなのですが、当時も親や先生が眉を顰めるような赤本的な俗悪な漫画や読み物が、安い値段で氾濫していました。そうすると子ども達は、みんなそれを読もうとします。親は当然、止めようとし、教師も眉を顰めます。そういう本を権力が代わりに取り締まりました。そうしますと国民は、自分達が困っているああいう悪い本を取り締まってくれるのだから日本の政府はいいことしてくれるということで、当然、歓迎するわけです。そういう非常に巧妙な手を使いました。

そして、その悪い文化財を弾圧すると同時に代わりに良心的なものに紙などを優先的に割り当てたものですから、先ほど言ったように復興現象が興ったわけなのです。これは一時的な仇花の現象であって、本当の目的は日本の子ども達を戦争に駆り立てることですから、昭和18年頃からだんだんと本音が出てきました。昭和19、20年になると資材もなくなりましたので、なんとか軍神中佐とかそんな本が出るくらいで、もう本当に日本の児童文学は息の根を止められてしまったわけです。

戦争が終わった時に、この復興現象についてのきちんとした総括をすべきだったのです。総括の内容というのは、「一体これはどういうことだったのか」、「この歴史的な事実から私達は何を教訓として導き出して、これからの日本の児童文学をどう考えるべきなのか」ということです。これを児童文学者たちが皆で真剣に議論するべきだったのですが、総括をしないまま、今日まで来てしまいました。そのことが私は、非常な不幸を生んだと思います。何故、総括をしないで今日まで来たのかと考えますと、二つ理由があったと思います。

一つは、冬の季節だった児童文学者達は、本がものすごく売れたため、経済的に潤ったわけです。そして最後の2年位は、息の根を止められましたけど、それは児童文学者だけではなくて日本の国民全部が戦争で、そうだったわけですから、仕方なかった。そして戦争が終わってみたら、先ほど言いました仙花紙文化の時代にはまた、羽が生えて飛ぶように本が売れました。その仙花紙景気というのは、戦後の5年くらい続くのです。あの戦争中の復興現象による景気と、戦後の仙花紙時代の景気というのは、児童文学者の意識の中では繋がっているのです。要するに自分達の書いているものは間違いない、だから自分達は、これまで通り作品を書いていれば、売れるはずだと信じ込んでしまったのだと思います。ところが1950年を過ぎたあたりで、パタッと売れなくなって、日本の児童文学の悲劇が始まるのです。それまでは、皆そうやって信じていたために、総括する必要なんてなかったのです。

もう一つの理由は、戦争中には、良心的進歩的と言われる児童文学者でも、牢屋に入ってなかった限りは、何かしら戦争に協力しているものです。そういう意味では、脛に傷があるという思いがあるので、復興現象についての総括をすることは、自分自身にメスを入れるということになります。だから、人間のさがとして避けたいという思いがあったに違いないと私は思っているのです。その二つの理由から、復興現象の総括を見送ったまま、今日まで来てしまったのですが、それが戦後の子どもの本の歴史にとって、非常に大きな不幸だったのではないのかと考えております。

そこに持ってきて今度は、戦後5年間のアメリカ占領軍GHQによる言論統制が行われたわけです。今度は、この言論統制の整理と言いますか、総括をきちんとやらないといけないと思います。そのために、必要なことは何か、つまり今後の課題ということになりますが、まずプランゲ文庫についてですが、この資料は、色々な事情があって、現在はアメリカに渡って、保存、整理されています。この資料は、日本に帰るべき資料だと私は、思っています。もう理由についてはくどくど言いません。

多分、いろいろな経過はありました。また、これを本当に守って下さったアメリカ人の方がおられたことには感謝しなくてはいけません。けれども、本来、日本の私達が共有すべき財産であって、この資料は、日本に戻ることが第一だと思います。

それから、次には何と言ってもこのプランゲ文庫の全体像を解明しなくてはいけません。そうしないと先ほどから申し上げているようなことが、解明されないわけです。『ビルマの竪琴』の問題も、新美南吉の問題も関わってきます。

私は、この前の講演の時には、あの南吉の校定全集を作った時に、全部元に戻したという話をしました。しかし戻ってないものもひょっとしたら、あるかもしれません。一日も早く、プランゲ文庫の全体像を明らかにして頂くことが大切です。ラウリー館長が、プランゲ文庫の児童書のうち、6割位が、日本の国立国会図書館にもないとお話されて、私は驚きました。本当にそうなのかということも、確認をしなければなりません。

当時は、地方で子どものための新聞とか雑誌が一杯出版されていましたので、そういうローカル出版物は、確かに国立国会図書館などにも残っていないのが多いかと思います。しかし、本当にプランゲ文庫の中に国立国会図書館に残っていない資料がそんなにあるのかということから始めて、実際に検閲の中で発行停止処分を受けた資料、或いは訂正とか削除の指示を受けたものが具体的にどういうものがあったのかということを明らかにしていくということが必要なのです。これは、非常に大事な事であるし、また時間的にも急がなくてはいけないことではないのかと、私は今日、メリーランド大学のラウリー館長のお話を聞きながら、改めて感じた次第でございます。

新美南吉の自主規制の具体的な事例をはじめとして、用意してきた資料もたくさんあったのですが、もう予定された時間になってしまいました。大変、駆け足で申し訳ないのですが、私の話は一旦、これで終わらせて頂きまして、またご質問などありました時に、補足することがあれば、その時にさせて頂きたいと思います。

どうも、今日はありがとうございました。