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国際子ども図書館主催の展示会のお知らせです。

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童画の世界−絵雑誌とその画家たち

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第1部 絵雑誌の歩み

近代日本の児童文化の発展は、児童文学から始まるとされています。そして、その児童文学のメディアとして用いられたのが、大量生産され安価な児童雑誌でした。「少年園」、「小国民」、「少年世界」などの児童雑誌が相次いで創刊され、その後、性別、年齢による分化を経て多様化し、幼年絵雑誌が登場しました。絵雑誌の嚆矢といわれる「お伽絵解こども」が明治37(1904)年に刊行、その後、「幼年画報」「コドモ」「子供之友」「日本幼年」が相次いで刊行されます。大正デモクラシーの機運の中、欧米で流行していた教育運動が日本でも取り入れられ、「児童中心主義」の教育が盛んになると、児童雑誌でも、「赤い鳥」をはじめ、「おとぎの世界」「金の船」(後の「金の星」)「童話」など、芸術性を重視する文芸雑誌が続けて創刊され、同時に、より質の高い絵画をメインにした幼年絵雑誌が誕生しました。幼児教育の高揚を背景に生まれたのが「コドモノクニ」です。その出現に刺激され、さらに、「コドモアサヒ」「キンダーブック」などが刊行されます。画家の武井武雄は、それらに施された絵が、単に文章に添えられた挿絵ではなく、「子どもに与える目的で描かれた絵画」だとして「童画」と命名しました。しかし、昭和に入って、絵雑誌は戦争などの影響で、統合されつつ衰退していきました。

童画の世界−絵雑誌とその画家たち

岡本帰一 「ボクノオ室」(「コドモノクニ」10巻6号(1931.5))

第一章 草創期:児童雑誌の誕生とカラー絵雑誌の萌芽

明治後期の児童雑誌に添えられた挿絵は、近世の絵草子の流れを汲むものもあれば、多色刷りの口絵や、ポンチ絵であったりと、新旧様々な趣向が凝らされていました。しかし、画家名が明記されていないものも多く、絵は添え物と見られていました。その中で、「お伽絵解こども」は、表紙から裏表紙に至るまで色刷りの絵を採用し、絵雑誌の先駆となりました。大正期に入ってからは、数多くの絵雑誌が刊行され、文字を知らない子どもたちが絵を楽しみ、絵で学ぶ要素を様々な形で模索しつつ、発展していきます。

第二章 黄金期:絵雑誌黄金時代の到来と幼児文化の確立

黄金時代を築いた「コドモノクニ」をはじめとする絵雑誌は、近代的な児童観に立って、芸術的に質の高い幼児文化を確立しました。画家による個性あふれる絵だけでなく、幼児自身が自由に表現した創作童謡や創作画が募集され、掲載されました。

(1)「子供之友」

羽仁もと子が、良質な子どもの雑誌を求める母親の声に応えて、大正3(1914)年に創刊しました。よい生活習慣や道徳観念の習得をめざす羽仁もと子の教育理念に基づいた編集方針が見られます。特に生活態度の良悪の違いを絵と文で示す「甲子上太郎(こうこじょうたろう)」は、「子供之友」の独自企画であり、子どもたちの大きな支持を得ました。これまでの絵雑誌が絵、文とも無記名が多かった中で「子供之友」は創刊当初から著者名・画家名をも表記し、その後の画家たちの地位を向上させるきっかけともなりました。

「子供之友」4巻1号(1917.1)

童画の世界−絵雑誌とその画家たち

北沢楽天「甲子上太郎」(「コドモノクニ」 巻 号(大正5年7月)
甲子と上太郎、乙子と中太郎、丙子と下太郎がそれぞれよい子、ふつうの子、悪い子の違いを示している。

童画の世界−絵雑誌とその画家たち
(2)「コドモノクニ」

東京社を経営する鷹見久太郎は、大正11(1922)年1 月に「コドモノクニ」を創刊、絵雑誌の黄金時代を築きました。丈夫で厚手の画用紙のような紙とオフセット五色刷りにより、独特の柔らかい色彩を出しています。初代編集主任の和田古江(ここう)は、教育学者の倉橋惣三(そうぞう)を編集顧問に迎え、芸術に重きを置いた方向性を定めます。童謡顧問に北原白秋、野口雨情、作曲顧問に中山晋平、絵画主任に岡本帰一と当時それぞれの分野で一流のメンバーを結集し、絵、文、音楽の融合を実現しました。「コドモノクニ」が対象としたおもな読者は、新興市民層の子どもたちでした。西洋風の家に住み、洋服を着た子どもたちの生活が、童画家たちの個性的なスタイルで繰り返し描かれ、都市に生活する子どもたちの洒脱なイメージを主体に置くことで、他誌と一線を画しました。

「コドモノクニ」8巻8号(1929.6)

童画の世界−絵雑誌とその画家たち
(3)「コドモアサヒ」

「コドモノクニ」に非常に似た企画でしたが、大阪朝日新聞社の学芸部員が絵を担当したり、社員が編集に加わっていたりしたことでニュース性のある記事も掲載されていたことが特色でした。

「コドモアサヒ」1巻1号(1923.11)

童画の世界−絵雑誌とその画家たち
(4)「キンダーブック」

わが国初の月刊保育絵本。大正15(1926)年に公布された「幼稚園令」により保育項目に「観察」が加えられたことによって観察絵本の本誌が創刊されました。書籍の小売店を通さずに、幼稚園に直接販売する方式を編み出し、大判で刊行されたことが特色です。

「キンダーブック」第1編(1927.11)
(復刻キンダーブック)

童画の世界−絵雑誌とその画家たち

第三章 衰退期:絵雑誌の統合と衰退

満州事変の勃発とともに、戦争の影がさまざまな形で絵雑誌にも影を落とし始めていました。戦局が進むにしたがって、ほとんどの絵雑誌が版型を縮小し、紙質も落ち、ページ数も減ってきます。また、表紙から童画家の絵が消え、次第に写真や風景画などが増えてきました。「コドモノクニ」でも、かつての洒脱な子どもの姿は消え、防空壕や慰問袋を作る子どもの姿など、当時の生活に密着した題材が描かれるようになります。

やがて、企業整備による出版社の統廃合がなされ、「子供之友」は昭和18年12月号、「コドモノクニ」は昭和19年3 月号でそれぞれ休刊、「ミクニノコドモ」など他の絵雑誌も、昭和20年1 月の時点で「日本ノコドモ」1 誌に統合され、同誌も3 月の東京大空襲により休刊となりました。

本田庄太郎「オテツダヒ」「キンダーブック」
11輯9編(1938.12)

童画の世界−絵雑誌とその画家たち

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