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本田庄太郎
ほんだ・しょうたろう
1893 - 1939

1893(明治26)年 静岡県浜松市に生まれる。
1907(明治40)年 14歳で、太平洋画会の付属機関として明治37年に創立された太平洋画会研究所に入り、石井柏亭、石井寅治から指導を受ける。
1910(明治43)年 『少年世界」懸賞表紙図案一等入選。
1913(大正 2)年 博文館の『幼年画報』『幼年世界』、時事新報の『少女』などに挿絵を描き始める。
1920年代に入ると、『コドモノクニ』『コドモアサヒ』『子供之友』で活躍し始める。
1928(昭和 3)年 1936年までの間、『少年倶楽部』に挿絵を描く。その他、『日本童話選集』(丸善株式会社 1926-1936)や『日本児童文庫』(アルス社 1927-1930) の挿絵画家陣に加わる。
主な作品に、講談社の絵本の第70篇『こがね丸』(巖谷小波作 八波則吉再話 1938)、第95篇『孫悟空』(1939)、第149篇『孫悟空と八戒』(1940)がある。

 『コドモノクニ』は、創刊の1922年1月号から3月号までを武井武雄の特色ある表紙で飾ったが、同年4月号から7月号までを本田庄太郎が描いている。その背景の一つに、『コドモノクニ』に対する各方面からの反応があったと考えられる。
 最初の3巻の表紙は、好評の一方で、…余りに外国趣味の多い感じ.…、希望としては西洋翻訳的気分から脱して欲しい…、田舎の子供にはピッタリと合わない所が多い…、などの投書があった。武井の表紙は、緊張したファンタジーの世界とも呼べそうだ。それに比べ、続く本田庄太郎の表紙には、極く普通の日本の子どもがいる、落ち着いた柔らかい雰囲気がある。
 本田庄太郎は、太平洋画会研究所時代に、模写等で浮世絵を独学。また、海外からの絵雑誌などにも多くを学び、自分の画風に見事に取り入れていくが、スウェーデンのラーションやスイスのクライドルフからは、特に画題の設定に少なからぬ影響を与えられたと考えられる。
 『コドモノクニ』の中で本田庄太郎は、農村の子ども、特に海や沼地、平地の子どもたちを多く描いている。しかし、その何の変哲もない画題のなかに示される、実にモダーンで独特の構図、ゆったりとした曲線と柔らかい色彩の織りなす世界は、子どもの目線から捉えられた自然の、斬新なフォルムと、豊かな遊びの舞台を繰り広げる。
 本田庄太郎は、子どもたちを育む大地や、木々、花畑、川を描き、そこを吹き抜ける風、鳥のさえずり、虫の音楽を描いた。その中で、子どもたちは遊び、働き、豊かに生きている。それが本田庄太郎の願いだったのだろうか?


参考文献
『児童文学事典』 日本児童文学学会編 東京書籍 1988年
『日本児童文学大事典』 大阪府立国際児童文学館編 大日本図書 1993年
 

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