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中山晋平
なかやま・しんぺい
1887 - 1952

1887(明治20)年 長野県下高井郡日野村新野(現・中野市)に生まれる。東京音楽学校(現東京芸術大学)本科ピアノ科卒業。その後1922年秋まで浅草千束小学校勤務。
1914(大正 3)年 島村抱月による「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」の作曲で認められる。歌謡曲、童謡、新民謡と幅広く活躍し、「ゴンドラの唄」(吉井勇作詞 1914)、「船頭小唄」(1921)「破浮の港」(1924)(以上、野口雨情作詞)、「東京行進曲」(1929)「東京音頭」(1933)(以上、西条八十作詞)など、一世を風靡した曲を含めて、作曲したものは二千曲におよぶ。童謡は約八百曲といわれる。
1919(大正 8)年 最初の童謡「美しいお早よう!」(相馬御風作詞)を『小学女生』に発表。以降、『金の船』(のちの『金の星』)『コドモノクニ』などの、子どもを対象とした雑誌に多くの曲を発表し、成田為三、山田耕筰らの『赤い鳥』とはまた異なった調子の童謡が好評を博した。
代表的なものには、「シャボン玉」「七つの子」「証城寺の狸囃子」「肩たたき」「背くらべ」などがあり、今日も歌われている。
1922(大正11)年 『コドモノクニ』8月号の童謡遊戯「舌切雀」を皮切りに、毎号のように1938年まで曲を書いている。
 1920年代に盛んに出版されていた子ども向けの雑誌は、童謡に曲をつけて人気を博していた。楽譜を読んで、ピアノやオルガンなどの伴奏で幼稚園や小学校で歌われることもあったようである。また、レコードも発売され、巷に北原白秋や西条八十、野口雨情らの童謡が流れていたのである。
 作曲家のなかで、大人から子どもにまで歌われた歌を作ったのが、中山晋平であった。中山は東京音楽学校で西洋音楽を学び、小学校で唱歌を教えていたにもかかわらず、唱歌の堅苦しさを破る新しいメロディーを生み出した。古くから親しまれてきた民謡の素朴な調子を基調にして、西洋音楽を取り入れた曲は、日本人の心情に訴え、現在もなお歌われている曲が少なくない。
 『コドモノクニ』では、野口雨情の童謡に、岡本帰一が絵を描き、中山が曲をつけることが多かった。1928(昭和 3)年の春の増刊号からは、土川五郎の振付の図解もつくようになる。とくに愛唱された童謡には白秋の「アメフリ」、八十の「鞠と殿様」などがあるが、なかでも雨情のものが多い。「あの町この町」や「雨降りお月さん」「木の葉のお船」「兎のダンス」など今日でも聞くことがある。
 調子を出すために、あえて詩に手を加えているものもある。「南京さん」がその代表である。
 中山は1938年の第17巻第13号まで毎年曲を寄せている。


参考文献
『日本児童文学大事典』 大阪府立国際児童文学館編 大日本図書 1993年
 

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