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童謡
「コドモノクニ」の画家たち
「コドモノクニ」の子どもたち
この展示について

 「コドモノクニ」は、東京社を経営する鷹見久太郎が1922年1月に創刊し、44年3月に終刊を迎えるまで23巻287冊を数えた、日本を代表する絵雑誌です。
「表紙」 1922年1月 武井武雄
 幼児を対象に、絵・おはなし・童謡・舞踊・劇・工作などをとりいれ、形態でも内容でもそれまでの児童雑誌の通念を打ち破る、芸術性豊かな絵雑誌として刊行されました。
     
左から:「表紙」 1925年1月 本田庄太郎/「表紙」 1927年4月 武井武雄
「表紙」 1927年11月 岡本帰一/「表紙」 1928年8月 岡本帰一
 縦26cm, 横18.5cmという大型の判型で、厚手の画用紙に似た紙を用いたのは、絵を見やすくし、子どもたちが何度もページを繰っても破れないようにとの配慮からでした。
 このため、多色印刷の効果が見事に発揮され、多くの才能ある画家が子どもたちのために創作活動を行う舞台となりました。
 当時、日本は大正デモクラシーの潮流にのって、子どもの個性や自我を尊重しようとする、新しい教育理念が旺盛でした。

 編集顧問となった倉橋惣三は、芸術が人間としての理想的な生き方につながると信じ、子どものために多様で純粋な芸術表現を求めました。北原白秋、野口雨情が童謡顧問、中山晋平が音楽顧問、編集主任は和田古江、絵画主任は岡本帰一が担当しました。

 画家たちが企画に参加し、あるがままの子どもを直視し、真剣に子どもの心を問い、子どもたち自身にページの中に自分を発見させることを目指しました。この展示でとりあげた創刊から1932年までの期間に登場した画家は、総勢百人を越え、そのうち4分の1が女性です。
 代表的な画家としては、既に子どもの雑誌で活躍していた、岡本帰一、武井武雄、清水良雄、川上四郎、初山滋、本田庄太郎に加え、東京社ゆかりの竹久夢二、細木原青起などが上げられます。
 
バウノオヤツ 1931年増刊号 岡本帰一 エントツソウジニン 1923年8月 武井武雄
 
遊動円木 1928年4月 川上四郎 ハーハ 1927年9月 初山滋
 
オサカナスクヒ 1929年8月 本田庄太郎 手つなご(童謡) 1922年12月 竹久夢二
 また、そうした人脈から松山文雄、伊藤孝、深沢省三、福田新生、恩地孝四郎、東山新吉、安井小弥太、古賀春江などの新人画家が登用されていきました。
 
夜のステーション 1932年4月 松山文雄 あけび 1928年11号 恩地孝四郎
 
高架線 1932年1月 安井小弥太 四月の散歩 1932年4月 古賀春江
 子どもの本の世界では、すでに19世紀末から、ウォルター・クレイン、エルンスト・クライドルフ、ブテ・ド・モンベル、エルサ・ベスコフを始めとする各国の絵本作家の作品が広く世界に伝えられ、民族や画家個人の創意を超えた普遍的なイメージの伝承と蓄積が繰り広げられていました。
 
「幼な子の花束」(1878)より口絵
ウォルター・クレイン
「わたしたちの子ども」(1886)より
モーリス・ブテ・ド・モンベル
   
「ペレのあたらしいふく」(1912)より
エルサ・ベスコウ
 
 更に、世紀末芸術のさまざまなグラフィックアートのスタイルが“イエロー・ブック”、“ユーゲント”、“ヴェル・サクルム”などの雑誌とともに日本に上陸してもいました。

 一方、モダニズムへ向かって大きく展開していく西洋美術の理念と造形の変化は、フォービズム、キュビズム、シュプレマティズム、未来派などの情報とともに、日本の画家たちに少なからぬ影響を与えており、「コドモノクニ」の画家たちも例外ではありませんでした。

 また、編集顧問の倉橋惣三はドイツのリヒター、スウェーデンのラーションの子どもの生活の描き方に傾倒していたと思われ、その影響もうかがうことができます。
 
「ABCの本」(1845)より
ルドヴィック・リヒター
「私の小さな農場」カール・ラーション画集(1905)より “林檎の果樹園”
カール・ラーション
 1920年代の都市の出現や技術革命の中、建築や商業デザインを含めて、美術の役割は、社会の中でそれまでの時代とは大きく変化していきます。しかし、「コドモノクニ」は、幕明けしたばかりの近代日本を担う子どもたちの心の糧を目指し、詩やおはなしの挿絵だけでなく、子どもの日常や空想の世界を、自由にのびのびと見開きの誌面に描き出していきました。