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1858年、孝明天皇(こうめいてんのう)の許可を得ず日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結んだ幕府への批判が高まり、天皇を尊ぶ「尊王」論と、外国勢力を追い払う「攘夷」論が結び付き、活発な尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)へと展開していく。開国に反対し、井伊直弼(いいなおすけ)と対立していた水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)らは謹慎処分となった。
徳富猪一郎『維新囘天の偉業に於ける水戸の功績』 民友社昭和3 (1928) 【536-317】
井伊直弼(いいなおすけ)が開国に反対した大名や公家を処罰したことで(安政の大獄(あんせいのたいごく))、尊王攘夷運動が高まり、直弼は1860年3月3日に江戸城桜田門外で暗殺される(桜田門外の変(さくらだもんがいのへん))。
大蘇芳年 月岡米次郎『安政五戊午年三月三日於テ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図』 熊谷庄七 【寄別7-5-1-1】
幕府は、朝廷と共に幕府を建て直す策(公武合体論(こうぶがったいろん))として、14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と孝明天皇の妹和宮(かずのみや)との結婚を進めた。だが、公武合体論は、尊王攘夷派から批判を受け、攘夷運動の高まりにつながる。
正親町公和編『静寛院宮御日記. 上巻』 皇朝秘笈刊行会昭和2 (1927) 【577-5】
1862年、江戸から京都に戻る島津久光(しまづひさみつ)の行列を横切ったイギリス人を、生麦村で薩摩藩士が切りつける「生麦事件」が起こる。その償いを求め、1863年7月、イギリスと薩摩藩との間で薩英戦争(さつえいせんそう)が起きる。薩摩藩はイギリスの強さを知り、近代的な軍備の増強に力を入れる。
貞秀『東海道名所風景』(東海道之内 生麦) 鍵庄文久3 (1863) 【寄別8-3-1-4】
1863年5月に長州藩は下関海峡で外国船を砲撃した。これに対し、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、長州藩は惨敗する。木戸孝允(きどたかよし)や高杉晋作(たかすぎしんさく)は、攘夷は困難で、強力な統一国家を作るべきであると考える。
『英使サトウ滞日見聞記維新日本外交秘録』 維新史料編纂事務局昭和13 (1938) 【210.593-cS25e-I】
1863年、尊王攘夷派の取締りと京都の治安維持のため「浪士組」が結成され、後に新撰組となった。近藤勇(こんどういさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司(おきたそうじ)などがいた。
土方歳三
近藤勇