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尊王攘夷運動 1

1858年、孝明天皇(こうめいてんのう)の許可を得ず日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結んだ幕府への批判が高まり、天皇を尊ぶ「尊王」論と、外国勢力を追い払う「攘夷」論が結び付き、活発な尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)へと展開していく。開国に反対し、井伊直弼(いいなおすけ)と対立していた水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)らは謹慎処分となった。

 

尊王攘夷運動 2

井伊直弼(いいなおすけ)が開国に反対した大名や公家を処罰したことで(安政の大獄(あんせいのたいごく))、尊王攘夷運動が高まり、直弼は1860年3月3日に江戸城桜田門外で暗殺される(桜田門外の変(さくらだもんがいのへん))。

 

尊王攘夷運動 3

幕府は、朝廷と共に幕府を建て直す策(公武合体論(こうぶがったいろん))として、14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と孝明天皇の妹和宮(かずのみや)との結婚を進めた。だが、公武合体論は、尊王攘夷派から批判を受け、攘夷運動の高まりにつながる。

 

尊王攘夷運動 4

1862年、江戸から京都に戻る島津久光(しまづひさみつ)の行列を横切ったイギリス人を、生麦村で薩摩藩士が切りつける「生麦事件」が起こる。その償いを求め、1863年7月、イギリスと薩摩藩との間で薩英戦争(さつえいせんそう)が起きる。薩摩藩はイギリスの強さを知り、近代的な軍備の増強に力を入れる。

 

尊王攘夷運動 5

1863年5月に長州藩は下関海峡で外国船を砲撃した。これに対し、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、長州藩は惨敗する。木戸孝允(きどたかよし)や高杉晋作(たかすぎしんさく)は、攘夷は困難で、強力な統一国家を作るべきであると考える。

 

尊王攘夷運動 6

1863年、尊王攘夷派の取締りと京都の治安維持のため「浪士組」が結成され、後に新撰組となった。近藤勇(こんどういさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司(おきたそうじ)などがいた。

近藤勇、土方歳三の肖像画

土方歳三

近藤勇

 
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