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国際子ども図書館主催の展示会のお知らせです。

講演会「ポール・フォーシェPaul Faucher(1898-1967)とカストール絵本Albums du Pere Castor」

末松 氷海子

第一次大戦後盛んになった新教育運動に、大きな影響を受けた出版人がいる。この人物は特に障害児教育に専心していたチェコのバクレに傾倒し、1927年自分の書店に新教育運動のフランス事務局を置き、12巻の教育叢書を出版し始める。この叢書の中に、児童文学の評論書として大変よく知られている、ポール・アザールPaul Hazardの「本・子ども・大人」(注1)Les Livres, Les Enfants et les Hommes が入っている。

「バクレのもたらしたものは抽象的な思想ではなく、生き生きとした驚くような教育の力である。それはまさに奇跡ともいえる。・・・それ以来私は、自分のできる唯一の方法、すなわち本によって、子ども達に解放と活動の素を与えたいと考えた。新しい心理学や教育学の資料を支えにして、できるだけうまく子どもたちの興味や可能性に、本をあわせなければならない」として、この人ポール・フォーシェは子どものための新しい本づくりに取り組む。その当時紹介されたソビエトの絵本の、外見は安っぽくてもみずみずしく大胆な絵の数々に驚き、目をみはった人は多かったようだが、フォーシェもまたこれをヒントにして、絵本作りを進めていったと思われる。

「もう重くてぶ厚く、高価で堅い表紙の絵本ではなく、できるだけ多くの子どもがさわれるような持ちやすい形で、ページは少なく、良心的で芸術的要求に応え、それでいながら安い値段の絵本」は確かに実現した。やがて生まれるカストール絵本は、表紙は中の紙とほとんど同じ厚紙で、見開きをホッチキスでとめただけの簡単な、でもしっかりしたつくりで、それまでの装飾の伝統からはまったく訣別しているものの、中は石版刷りの鮮やかな絵であふれているところに特色があった。

フォーシェは出版にこぎつけるまで、児童図書館やスラム街での子どもの実態を観察したり、情報収集やアンケートを行ったりした。しかし本を読む子と読まない子の違いを社会的文化的要因に求めることはせず、子どもの普遍性と本質的なものに信頼を寄せた。「読書の習慣があり、本好きな子どもに本を与えるのは、牛の前に荷車を置くようなものだ。読むのが嫌いか、まだよく読めない子どもたちを本好きにすることから、まずはじめたい。」

そして、字がやっと読めるようになった頃の子どもが、もっとも感受性豊かであり、この年代こそ精神的成長の土台が築かれる時期であると考え、この年齢層を読者対象にした。ようやく1931年、最初の二冊が出る。それは「子どもは自分自身で行動することが必要だ。探検し、経験し、創造しながら自分自身の作品を作り上げること」を理想にしたフォーシェの第一作にふさわしい工作絵本だった。タイトルを日本語に訳すと、「お面を作る」「切り抜く」というふうに主語が省かれてしまって意味をなさないが、実際にはJe fais mes masques「わたしがお面を作る」、Je decoupe「わたしが切り抜く」と一人称で書かれているところに、子どもの活発な自主性を引き出そうとするフォーシェの意図が考えられる。自発的な読書と同時に、物を作って遊ぶ建設的手作業の機能を重視する彼は、自分の絵本シリーズにも、せっせと巣作りに熱中する動物カストール(ビーバー)が相応しいと、その名をつける。本を「教育の道具」と呼びはしたが、血の通わない単なる道具ではない証拠に、自身を「カストールおじさん」と名乗った。読者との愛情あるコミュニケーションがなければ、本は道具としての役割を果たしえないと考えたに違いない。また、幼児向けの作品に「パパ」と著名したエッツェルの伝統も生き続けていたようである。

カストールおじさんは、本の前書きで子どもたちに、やさしく呼びかけたり、説明したりしてくれる。

「本のまんなかに二枚の厚紙があるでしょう?それをはずして小さく切り分けてごらん。」

「私の説明を読む前に、もう中の絵を見たでしょう?そりゃあ、よかった。」

「この本の中に赤と青の魔法のめがねがありますよ。それをかけると、まるで王さまになったみたい。はじめに青、次に赤のめがねをかけて絵を見てごらん。魔法の杖みたいでしょ?それとも空とぶじゅうたんかな?あっという間に別世界へ!いってらっしゃい!カストールおじさんより」

だがどんな親しげな口調であっても、おじさんは読者の子どもたちを「お前」呼ばわりしたりはしない。このことから、子どもを一人の人間として尊重する態度、人格をそなえた子ども読者と編集者の、信頼に結ばれた対話の重要性を教えられる。真の教育者としての役割の重さを、フォーシェがはっきりと意識していた証拠ともいえよう。

本づくりについて、フォーシェが何よりも大切だと考えたのは、言うまでもなく絵の働きである。子どもの感受性と知能に同時に働きかけるために、絵ほど相応しいものはない。

「絵は最大限に魅力的な力を使わなければならない。物語を支え、照らし、説明し、広げ、美しく誠実な知性と感性に直接話しかけなければならない。…絵は独立している。自身の中に完全な意味がある。絵はメッセージの運び手である。」

テクストの従属物ではなく、文の助けがなくても、時には文に先だって働く絵の重要性を強調するフォーシェのもとには、共感する才能ある画家たちが何人も集まった。次々に生まれる、優れたカストール絵本は、同じ考えを分かち合い、協力し合った画家と編集者との出会いの結晶にほかならない。幸運の出会いがなければ、フォーシェの理想の実現はむずかしかったにちがいない。カストール絵本を代表する画家ナタリー・パランNathalie Parain(注2)も、当時はまだ無名だったが、フォーシェとの出会いがチャンスになった一人である。その才能は、続く画家たちに影響を与えた。

1897年キエフで生まれたナタリー・パレンは、モスクワで絵を学んだ。1920年代に文化担当官という役職でモスクワに来ていた、フランスの哲学者ブリス・パランと知り合い、結婚して、後に夫とともにパリに移り住む。そしてフォーシェに認められて、カストール絵本の最初の二冊の絵を描いて、フォーシェの理想を初めて具現化した。

『お面を作る』にはインド、日本、アラブ、ロシアの人々、黒人、インディアン、エスキモーの人々、それにノルマンディの農婦の顔がそれぞれ個性豊かに描かれている。お面を作って遊びながら、さまざまな国に暮らす人々を知り、未知のものへの関心を抱かせようとしたフォーシェの意図は、その後「地球の子どもたち」Les Enfants de la Terreシリーズに結実する。同じく二年後にパランがローズ・セリRose Celliのテクストに絵をつけた『早く行こう』Allons viteの前書きでも、カストールおじさんはこう言っている。

「・・・なぜそんなに早く行こうとするの?早く行くのがうれしいから、それにもっと遠くへ行って、知らない国や知らない人々、知らない木や動物や花に出会って、みんなと友だちになりたいから・・・」

パランはカストール絵本の初期の7冊目までのすべてに絵を描き、その後も多くの傑作を残しているが、とりわけ初期の作品には印象深いものがあり、今も語り継がれている。1932年に同郷のエレーヌ・ゲルティックHelene Guertikといっしょに描いた『魔法の本』Album magiqueも好評だったし、同じ年の『丸と四角』Ronds et Carresは、丸と四角の細かい断片を組み合わせることでいろいろなものを形づくる楽しさを十分に与えてくれる。50片以上を使ってエスキモーの子どもが出来上がる組み合わせの妙、こうのとりの赤と黒のコントラストなどがすばらしい。中でもパランの代表作とされているのが、4冊目に描かれたロシア民話『バーバ・ヤガー』(注2-a)BABA YAGAで大胆洒脱な筆づかいと色合いにロシアの風土のにおいが見事にとけこんでいる。それまでの二倍の大型ページに描かれた物語は、余白の空間を存分に生かしながら、迫力をもって展開する。

1938年パランの遊びの絵本としては最後になった『さけび声と騒音の遊び』 Jeu des criset des bruitsは、目で見ることを学んだ後、音をとらえるときの子どもたちの感性のありかたが描かれている。教育目標と編集形式と内容が完全に一致した、すぐれた作品として評価されたといわれている。

パランとともに、カストール絵本になくてはならない画家をもうひとり紹介しなければならない。フェオドール・ロジャンコフスキーFeodor Rojankovsky(注3)、愛称ロジャンである。1891年やはりロシアの生まれで、陸軍幼年学校を出て、第一次大戦のときは軍隊にいながら絵を描いていたといわれる。1925年パリに亡命する。子どもの本に関しては、革命期にウクライナの子どものために絵本を作ったのが最初だが、1931年に出された『ダニエル・ブーン』Daniel Boone(注3-a)がフォーシェの目にとまり、カストール絵本に描くようになる。フォーシェはロジャンの才能だけでなく、自然や生物に対する深い愛情に共感して友情を結んだ。とりわけ動物画家としてのロジャンの腕を見抜き、必ず子どもの興味にこたえる絵を描くにちがいないと考えた。そこでまず試験的に、二冊の自然絵本を描いてもらい、その成功を見定めてからいよいよ有名な「動物物語」Roman des Betesシリーズの開幕となる。

1934年の『りすのパナッシュ』(注3-b)Panache l' Ecureuilを皮切りに、『野うさぎフルー』(注3-c)Froux le Lievre、『野がものプルフ』Plouf canard sauvage(注3-d)、『くまのブウル』Bourru l' Ours brun(注3-e)、『あしかのスカフ』Scaf le Phoque、『はりねずみのキピック』Quipic le Herisson、『かわせみマルタン』(注3-f)Martin‐Pecheurと続き、1939年の『かっこう』Coucouまで毎年出された。それぞれが文と絵によって、森や野原や池の自然環境の中での生活を写しだし、「子どもたちに嘘偽りでない本当の魔法と詩、つまり自然の魔法と現実の詩を与える」傑作だった。このシリーズの独創性は自然の中でのありのままの動物の生態を正確に描き出したところにあり、擬人法はまったく使われなかった。ロジャンは実際の動物を鋭く観察している。ただテクストのほうは、まるですぐそばにいる友達のことのように書かれていて、子どもはたやすく動物たちと同化できる。

「朝から晩までふたりは枝の上ではねまわり、踊ります。まつぼっくりを投げ合い、かくれんぼをしたり、子どもみたいに追っかけっこをするのです。」

「フルーは自分とおなじうさぎに出会ってうれしくなりました。『きみ、なんて名前?』『カピュシエンヌよ。あんたは?』『フルーさ』」

くまの子のしつけも、子どもは自分自身と比べながら読むことができるであろう。

「はじめに、子ぐまたちは、においをかぐこと、走ること、一人でたべること、泳ぐことを習わなければなりません。学校は森です。時間割はありません。散歩のときに、まわりのことを勉強するのです。先生はお母さんです。」

動物と一体感がもてるように、子どもの感性に適した文章を書いたのは、後にフォーシェの妻となるリダLidaである。リダはかくてバクレのもとで協力者として働き、ここを訪れたフォーシェと知り合って結婚した。『動物物語』がこれほど評判になったのは、ロジャンの絵は言うまでもないが、テクストを書いたリダの力によるところも大きい。

第2次大戦でパリがドイツ軍に占領されると、ロジャンはアメリカへ渡った。そしてアメリカの読者の好みに合わせて、動物の擬人法を取り入れるようになった。だがそのときでさえ実際の動物の生態を尊重し続けたといわれる。

ロジャンがカストール絵本のために描いた、後期の代表的な作品が2冊ある。1939年の作である『シガルー(翻訳タイトル:りんらんろん;みんななかよし)』Cigalou(注3-g)は、男の子が自然界のさまざまな生き物たちに見守られ助けられながら、苦労の末山の頂上へ到達し、心から満足感と幸せを味わう話である。灰色の枠の中に描かれた絵は、一連の額縁の絵を眺めているような気になる。ロシアのネオ・プリミティスムやイコンの宗教画からの影響を受けているといわれる絵には、子どもの本当の姿が純粋に表現されている。おへそを出して、大きな犬と戯れる、赤いほっぺの男の子の絵には、子ども時代への信仰ともいえそうな熱い思いがあふれている。

2年後に生まれた『ミシュカ』Michka(注4)はぬいぐるみのくまが主人公である。持ち主の女の子の横暴に耐え兼ねて家出したミシュカは、自然の中で本当のくまになろうとしたが、クリスマスの夜プレゼントのない貧しい病気の子どものために、結局またもとのぬいぐるみにもどることを決意する。善意と思いやりの尊さをうたったテーマは、感受性豊かなやわらかい色調の絵とよく合っていて、全体に詩情がただよっている。

フォーシェはこの絵本を大型にしたかったが、紙不足で断念したといわれる。ほのぼのとした温かい物語の中に、どことなく哀愁が感じられるのも、やはり1941年という時代のせいではないだろうか。ただ『ミシュカ』にも、自己犠牲的な健気さと同時に、家を離れて一人で考え、行動する子供の自立心が表されていて、それが『シガルー』と重なる点である。どちらもテクストを書いたのは、マリー・コルモンMarie Colmontで、ロジャンとのコンビのこの2作は、カストール絵本の中でも重要な古典として中心的な位置を占めている。

辛い戦時期を乗り越えたフォーシェは、戦後まもなく新しいシリーズを出し始める。写真を使った「映像を見せる人」シリーズ、「地球の子どもたち」シリーズ、さらに1950年代には、文字や数の基礎的知識を教える絵本などもある。

イタリーのパドワ大学で、それまでの全業績に対して「ヨーロッパ子どもの本賞」Le Prix europeen du Livre pour enfantsを受賞して5年後の1967年、69歳で永眠する。

フォーシェ亡きあとも、息子のフランソアが受け継ぎ、また新しい画家や作家たちの協力を得て、カストール絵本は現在までずっと続いている。子どもの自主性、創造性を大切にし、自然界や宇宙の営み、未知の国々や人々について知ろうとする意欲と、知識を得て感動するみずみずしい心を育むことに生涯をかけた「カストールおじさん」の精神は、時代を超えて生き続けていくにちがいない。

しかし、70年代頃から現在にかけて多くの画家たちが活躍している中、最近カストール絵本に困った傾向が出てきている。というのは、文章はそのままにして絵を替えてしまうということである。もちろんフォーシェが生前編集をしていた時も、時々絵を替えることはあったようであるが、今私たちから見れば、本当に大切な絵本として見られるような絵まで本気で替えてしまうということが行われはじめた。全く聞いたこともないような画家が絵をつけてカストールから出てきて、ナタリー・パレンの絵ではない作品になったり、「動物物語」シリーズの作品が、写真を使ったものになったりしている。これは「動物物語」ではあっても理科の勉強に役立つ教材になってしまっている。ロジャンがロジャンとして描いた「動物物語」の絵はいったいどこへ行ってしまったのか。こうしたことによって作品が変わってしまうという傾向がある。これはカストール絵本に限った現象ではなく他のフランスの絵本にも見られる。教育的な色合いが強まり、本の最後にその物語についてのクイズがついているといった傾向が見られる。例えば『星の王子さま』の最後に「なぜ星の王子さまはこれこれこういう場面で泣いたと思いますか」というようなものが載っている。

もう一つ例をあげたい。前述したロジャンの『ミシュカ』という本である。フランスでも大変人気のある作品である。

この『ミシュカ』(注5)の翻訳の話が私のところへ来た時、私はこの話が好きだったので引き受けたが、手元に届けられた本は、ロジャンの絵ではなくジェラール・フランカンGerard Franquin(注5)という人の絵であった。文章はそのままであったが、まったくスタイルの異なった絵になっているのである。
なぜそのようなことになってしまったのであろうか。1968年フランスでは教育革命という大改革が起こり、子どもの本の分野では非常に教育の比重が大きくなった。70年代にはいると、カストール絵本は古いものだ、絵も時代遅れだという風潮が広がり、編集者もそのため現代風な新しい画家に絵を描かせることにしたのではないか。

「私たちの世代からすると大変残念なことだ。それは大切な文化遺産が損なわれるというぐらいの気持ちを持ってもらわなくてはならない」とカストールの変容を批判したのは、イザベル・ニエール(レンヌ大学教授)であった。このことは一体どういうことかというと、例えば私たちにも馴染み深い、『ぐりとぐら』が、お話はそのままに、絵が異なった人によって描き替えられるということなのである。しかし幸い、ロジャンの『ミシュカ』も最近復刻されて刊行されている。時代とともに変化していくことは避けられないことであるから、そういった新しいものを否定しているだけではいけないが、やはり文化として古いものを切り捨てるのではなく残していく必要もあるであろう。