過去のイベント

国際子ども図書館主催の展示会のお知らせです。

講演会「プランゲ文庫について」

講師:チャールズ・B・ラウリー氏(メリーランド大学図書館長)

本日は国立国会図書館の支部国際子ども図書館とメリーランド大学で共催させていただくプランゲ文庫の児童書コレクションの展示会において、発表させていただく機会を得ましたことを大変嬉しく思います。これは今までの取り組みの集大成ともいうべきイベントだと認識しております。何よりも日本の皆様に直接プランゲ文庫の資料を見ていただくということが非常に重要な機会であると考えております。メリーランド大学を代表し皆様方にご挨拶を申し上げたいと思います。そしてこの素晴らしいイベントに取り組んでくださいました国際子ども図書館のスタッフの皆様方に厚く御礼申し上げます。また、今までのこの取り組みに対しご支援を頂いております早稲田大学、日本図書館協会並びにニチマイ社の皆さまへもこの場をお借りし御礼申し上げます。

この国際子ども図書館の存在こそが、日本が年少時から読書、学習に重きを置いていることの偉大な象徴ではないでしょうか。前回も日本に参りましたときに、このすばらしい図書館を見せていただきました。しかし、その際はまだ一部の開館となっており、建設中の状況でした。2001年に私が参りました際にも感じたことがあります。私のように大きな学術図書館の館長の目から見ましても、この国際子ども図書館の展望は明るいという印象を持ちました。この建物が美しい建物であるというだけではなく、かつての帝国図書館の美しさと目をみはる近代的な建物が組み合わさった風雅で趣のある建物からも伺えます。国際子ども図書館のサービス、コレクション並びに魅力的な設備などから考えまして、この図書館は日本の国内で重要な位置を占め、世界的にもひけをとらず資料の宝庫となるものと確信しております。私はメリーランド大学の図書館長として、このような形でプランゲ文庫を展示していただいたことを大変誇りに思っております。

さて本日、このプランゲ文庫の歴史を皆様と振り返ってみたいと思います。この資料は、メリーランドにどのような形で到着したのか、国際的な資料の宝が両国の関係者の手によってどのように保管されてきたかについてご紹介申し上げます。また、将来にむけての協力の新たな機会についても若干言及させていただきたいと思います。

かつてマイケル・マンスフィールドMichael Mansfield元駐日大使は、「日本とアメリカという2国間は、世界に最も重大な影響を与える関係だ」と申しました。これは、国際政治ならびに経済という分野の中で言及された言葉であります。しかしながら、この元駐日大使の言葉は、プランゲ文庫の保存に向けて両国が協力してきた経緯にも当てはまるのではないかと思います。この協力体制は、何十年もの間、続いてきました。この取り組みが最初に行われたのはまだ戦争の影が残る60年程前のことでした。

マッカーサー連合軍総司令部の指揮下で民間検閲局(CCD)が設立されました。1945年から1949年の間、このCCDはすべての日本の出版物を対象に日本出版法に照らして違反がないかという検査を行いました。その検閲箇所がいかに小さなものであれ、また物議のあるなしに関わらず、すべての出版物が、CCDの検査の対象となりました。そしてCCDがその中で違反を発見した場合には、処分がなされました。

ほとんどのケースでは、ほんの一部分の削除のみの処分でしたが、中には出版物が発行禁止の処分を受けたケースもありました。しかし、実際、何の検閲も受けることなく出版されたページ数も何百万に及ぶということも忘れてならないと思います。そして、今日の両国のすばらしい協力のおかげで、占領期に発行禁止になった資料の中身も閲覧できるようになりました。私どもは常にこの検閲された資料を完全に利用できる機会を提供するということを目標にしてきました。そうすることによって、占領期に関しての理解が深まることを願っております。

今の時代になりますとアメリカ人はこのような形でCCDが検閲していたということを、大変な驚きをもって受け止めると思います。米国憲法修正第一条に反する行為であると考えるでしょう。しかし、このように検閲され発行禁止になった資料は、終戦直後の状況のみならず、我が国アメリカについても様々な知識を得ることができると考えています。今は非難すべき行為だとみなされているかもしれませんが、このような形で検閲がなかったとすれば、この時期に収集された文献、文学などをこれほど集めることができなかったでしょう。戦後の混乱期でありましたし、日本の図書館も占領期においては、十分に資料を収集しうる状況ではなかったと思います。

2000年に国立国会図書館とメリーランド大学図書館とで協力して調査を行いました。その分析の結果、現在、プランゲ文庫の中にある所蔵物(児童書も含む)の60%以上が、国立国会図書館には所蔵されていませんでした。ということは、日本の他の図書館にも所蔵されていないと言えるのではないでしょうか。また控えめに見積もってもプランゲの資料の50%以上は、世界のどこの公共または大学図書館にも所蔵されていないということが言えると思います。

この統計こそが、いかに両国の間の協力関係が知識上ならびに文化の上でも重要なものであるかという証拠ではないでしょうか。国立国会図書館とメリーランド大学図書館の長きに渡る協力関係があったからこそ、長年に渡って国際的に注目を浴びてきたプランゲ文庫を保存することができたと考えております。当然のことながらこれからも様々な課題が出てくると思います。しかし今までどおり、共に協力することによって、それらの問題も克服できると思います。

さてこのゴードン・プランゲ文庫でありますが、第二次世界大戦直後の日本、1945年から49年にかけての占領期の出版物の所蔵としては、最も包括的なものとなっています。本、パンフレット、新聞、雑誌また報道写真や政治的なポスター、地図その他の保管文書など、この占領期におけるありとあらゆるトピックに関して出版されたものが包含されています。

このコレクションの中には、非常に膨大な数の日本語の資料が含まれています。そしてその後、大学によって追加された英語の蔵書も含まれます。

CCD関連の資料に関しては、雑誌としては13,799件、新聞 18,047件、本とパンフレット71,000点、報道写真 10,000枚、ポスター 90枚そして地図が640枚となっています。

このコレクションが重要なことは、日本国内図書館で収集されているそのコレクションの空白を埋めるということで、非常に大きな重要性を持つということだと思います。

いわば私のプレゼンテーション中の主役というべきこのゴードン・プランゲ氏についてもう少し、ご紹介申し上げたいと思います。

ゴードン・プランゲ氏は、1910年にアメリカの農業地域アイオワ州のポメリー(Pomery)に、生まれました。彼は、アイオワ大学で教育を受け、その後1937年にドイツ史の分野において博士号を取得いたしました。そしてメリーランド大学の史学課の職員に1938年に就任しました。開戦時に彼はアメリカの海軍の将校となりました。そして1946年に退役を迎えた際には、日本にいました。その後、メリーランド大学に戻りましたが、数ヵ月後に、休職願いを出し、日本に家族を連れて赴任することとなりました。その後、GHQマッカサー帥の史学課に配属されました。これはウィロビー少将の要請を受けての赴任でありました。1949年に日本のメディアに対する検閲が解除された際に、CCDの中で検閲局の収集した資料の重要性を認識している歴史家が関与していたということは、何よりも幸いな巡り合わせでありました。そして1949年12月には、メリーランド大学の総長でありますハリワード氏に対しまして、ウィロビー少将がメリーランド大学に対しCCDの資料を送るという決定をしたことを伝えました。その後、プランゲ氏はこの船積みに向けて資料を箱詰めする作業に根気よくこなしました。この箱は、500箱に及びました。この資料群は、1950年の春にメリーランド大学へ到着しました。資料がメリーランド大学に到着後、どのような取り組みが行われたのかということをご紹介するために、プレゼンテーションの途中で何枚かのスライドをご紹介申し上げたいと思います。

(スライドを準備、手紙のスライドをさして)この手紙は、1949年11月29日付けとなっております。これはプランゲ氏がメリーランド大学のハリー・バード(Harry Byrd)総長に宛てた手紙です。内容は、この船積みの財政的な支援の要請でした。この中で資料が歴史的に大変、重要だということをプランゲ氏は強調しました。そしてスタンフォード大学のフーバー図書館とこのコレクションに関して競合関係にあるということも明かしています。この手紙は、9ページに及ぶものでした。この手紙をもってしてプランゲ氏は、メリーランド大学のバード総長を説得することに成功致しました。プランゲ氏としてはこれだけ大きな所蔵物をメリーランド大学に持っていった後、どうすべきかという課題について重々、認識していました。しかし、固い決意をもってこれを遂行しようとされていました。

(プランゲ氏の写真のスライドを指して)これは、プランゲ氏が亡くなる前の1979年の写真で、この翌年に逝去されました。私は残念ながらお会いしたことがないのですが、プランゲ氏の教え子達には数多くお会いしたことがあります。そして皆さん、共通しておっしゃるのは、プランゲ先生の歴史の授業、また日本での経験に関して行った授業が大変、素晴らしかったということでした。

(スライドを指して)これはハルンロブンサットという人物でメリーランド大学の当時の図書館長でありました。このロッソ館長は、メリーランド大学に図書館の初代館長です。先ほど出ておりますのは、日本から到着した箱と並んで写されたものであります。

ここで重要なことは、当時のメリーランド大学というのは、今と比べてはるかに小規模だということです。その後メリーランド大学も急成長をとげました。今では、35,000人の学生数、教職員3,656人、7箇所の図書館を有し、また図書館の資料の蔵書数も300万点となっております。しかし1950年当時、学生数はまだ13,000人で、職員数も575人でした。何よりも独立した図書館を持たない大学でした。この文庫は、教室と並ぶシューメイカービルの中に保存されました。そしてマッケルデン(Mckeldin)図書館が開館する1958年まで続きました。現在は、7つの図書館がありますが、プランゲ文庫が送られてきた当時、図書館はなかったということです。最初に開館したのが、マッケルデン図書館です。マッケルデン図書館が開館してすぐにCCDの資料は、新しい設備に移されました。

1958年以降は、メリーランド大学は学生や学者に対し、このコレクションを利用していただこうと懸命の努力を行いました。1962年には500箱ありました木箱もすべて開けられ、資料は棚に並べられました。そして1963年には、図書館の中に東アジア部が開設されました。そしてその部長が金子氏であり、そして金子氏はスタッフを採用し、その当時から本格的な目録作業、資料の整理が行われるようになりました。この作業は、大変膨大なものでありました。優秀なスタッフ達でしたが、いかんせん少ないスタッフで迅速に作業をすすめるということは、極めて困難でありました。日本の国立国会図書館、あるいはアメリカの議会図書館において今日でさえもそれぞれの国で出版されている資料を毎年、整理処理するということは大きな課題とされています。メリーランド大学図書館は、一生懸命、取り組んでおりましたが、日本において占領期の5年間に出版された資料を全て、迅速に処理するということは、大変難しい課題でした。

(スライドをさして)これはこの東アジア部の1979年の状況です。プランゲ文庫が開設されてから15年後です。この当時は、プランゲ文庫は、東アジア部の一部となっておりましたので、分離はされておりませんでした。ですからこちらでご覧のとおり、プランゲ文庫の資料も現代の書籍とともに棚に並んでいたということをおわかりいただけると思います。そして1960年代末から1970年代にかけて東アジア部のスタッフは、このコレクションのアクセスを改善すべく全力を集中して作業をすすめました。すべての資料は、この時点で棚から出し入れできる状態になっておりました。そして15,000点の書籍に関しましては、予備的な目録も出来上がっておりました。1980年には、展示された資料のおよそ半分がマイクロフィルム化されています。そして1978年9月15日になりましてメリーランド大学の理事会はこのコレクションをゴールデン・W・プランゲ文庫と命名しました。それを記念して記念講演会が開かれました。すばらしい記念講演であり、その様子は、ビデオで現在も見ることができます。しかしながら、命名されて2年後にプランゲ博士は亡くなりました。彼の発表した論文、取り組んだ仕事が彼の死後に公表されました。

1974年から1984年にかけて、新聞資料の80%の仕分けが完了し、18,000の索引記録が作られました。また1985年、同様にCCDのワークシートを使いまして、雑誌のコレクションが全て整理を終えました。このような努力が1980年代を通して続けられました。その間、プランゲ文庫はより広く知られるようになりました。それに伴って日本からの関心も高まりました。教育機関との交流が本格的に始まりましたのもこの頃であります。1988年には、横浜市の総務局市史編集室よりプランゲ文庫の雑誌新聞資料のうち、神奈川県内で出版された資料をマイクロフィルム化したいという申し出がありました。コストは、横浜市によって負担されたということであります。その際、マイクロフィルム化されましたのは、10万ページであり、完成したマイクロフィルムは、1991年に横浜市に手渡されました。

こちらのスライドは、少し見にくいのですが、東アジア部のスタッフの写真です。1960年代に撮影されたものと思われます。そしてこのセクションのトップでありました金子氏が、左上の方に写ってらっしゃいます。そしてキャング氏は、右後ろの方に写っている方です。天野さんという女性の方が左前に写っています。慶応大学から交換留学生としていらっしゃって、お手伝いしてらっしゃる方です。こちらの方に写っている写真ですが、金子さんがまた写っています。そしてギャンバリエさんという方が写っています。この写真を見ると、如何に膨大な作業であったかがわかります。日本から到着した箱を開けた際に、取り出された新聞、雑誌資料であります。全くの未整理のまま送られてきましたので、かなり大変な作業をしなければなりませんでした。

このようなプロジェクトが1980年代後半まで続きました。それに伴い新しい協力体制が生まれましたし、大きな成功を収めることができましたが、他方、問題も発覚してきました。この時期になりましてから、さしせまった新しい問題が色々深刻化しました。即ち酸の含有量が多い紙が使われていたためにそれが、容赦ない形で崩壊し始めたわけであります。この現象に関しましては、"スローファイヤー""緩慢な火事"のような例えがなされています。これは即ち化学的な酸化反応が起きているということであります。皮肉にもこの問題というのは、1980年代の初めまで国際図書館界にも認識されていませんでした。このような酸性紙に関しての情報などは1980年代半ばまで図書館の専門誌には出てこなかったわけです。この問題は、プランゲ文庫において特に深刻でした。これは戦後の時期に出版された際に使われた紙が低品質のものであったためです。その当時使われた紙というのは、酸の含有量の高いパルプによって作られた紙でありました。

 また1960年代末以前は、日本ならびにアメリカの図書館で空調設備のある所は、ほとんどありませんでした。そのために冬は大変、乾燥した状態になっていましたし、そしてまた夏の間は、高温多湿という悪条件でありました。このような状況で、その紙が酸によってもろく崩れていくという現象がおきてしまいました。これはその空気中の温度ならびに湿度によって加速化されました。しかし近代的な空調設備のない条件の中では回避できない問題でした。そういう事情でプランゲ文庫は、20年もの間、空調設備のない図書館で保存されることになりました。漸く空調設備が取入れられましたのは、1967年のことです。マッケルデン図書館において初めて空調設備が整備されました。

1980年代に入りましてから酸による紙質の崩壊が深刻化し、保存のためにはマイクロフィルム化することを最優先にすすめなければならないという必要性が生じてきました。よってこの作業は、1990年を通して精力的にすすめられました。この紙がどれだけ脆く崩れやすいものであったのかということを、ご理解いただくために私の個人的な経験をご紹介します。1996年に私は、メリーランド大学に赴任しました。その際、プランゲ文庫のマネージャーであります村上寿代さんがこの文庫を私に紹介してくださいました。ある朝、彼女は私のところにやってきて、「一つ重大なことを発見した」と報告しました。2年前に彼女が酸化防止ホルダーの中に納めた新聞記事が完璧に崩壊しているということがわかったのです。

1992年から97年にかけてはメリーランド大学図書館並びに日本の国立国会図書館とが全面的に協力いたしまして、プランゲ文庫の中にある13,000点の雑誌の保存に尽力しました。63,000のマイクロフィッシュそして包括的な文献索引が作られました。そして次に1997年から2001年にかけて、第二段階の取り組みとしてメリーランド大学の図書館は、また再び国立国会図書館と協力し今度はプランゲ文庫の新聞記事(17,000件)のマイクロフィルム化に取り組みました。この新聞記事AからZまで全て目録化しフィルムを作るという作業は、2001年の6月に完成しました。このマイクロフィルム化の取り組みの中で私どものスタッフは何千時間と費やして今にも崩壊しそうな新聞などにアーカイブテープを用い、マイクロフィルムを作成しました。国立国会図書館のスタッフの方々もメリーランド大学にいらしていただき、言語学的、また書誌学的な支援を提供して下さいました。またニチマイ社もこれもカレッジパークにあるマッケルデン図書館内の特別な設備で作業をすすめて下さいました。この取り組みというのは、本当の意味での国際協力という体制で行われました。そしてこの結果、プランゲ文庫における重要な二つ柱がたったわけであります。この結果生まれた資料というのは雑誌、400万ページ、そして新聞に関しては200万ページに及ぶものであります。これは今では、学生ならびに学者がアクセスできるようになっています。

さて次に本、書籍に関しての目録整理でありますが、1960年代に行われていました。しかしながらその後、スタッフ不足ということで中断しておりました。また1990年代に入りましてから作業は再開されましたが、71,000の本とパンフレットが対象となった取り組みで目録整理が行われました。これはテーマ並びに著者別に整理されましたが、詳細目録までは完成していません。現在は、教育関連の書籍の目録化を進めているところです。2年間の計画の中で、その終わりに近づきつつあります。しかしまだまだ、十分に学者の皆様方に使っていただくまでには、整理されていません。このような作業は、非常に集中力を要しますし、スタッフの、専門的かつ言語学的知識が要求されます。よってコストがかかるということになります。全世界の学者及び学生が利用できるようになるために、この作業を続けられるよう資金調達をきちんと行っていかなければなりません。

プランゲ文庫を所蔵するようになって以来、メリーランド大学は財政面・人材面ともに、多大な努力を注いでまいりました。そしてこの25年間、多数の機関から経済的に惜しみない援助を受けており、支えられています。1977年以降、米国人文科学振興基金から、プランゲ文庫に対する助成金を数回に渡って頂いております。また、1993年に国際交流基金日本センターより、また日本財団からは1999年以降、助成金を頂いております。

これらをすべて合わせますと300万ドルに及びます。大学側もこれと同等額を文庫の保存、保管のために使わせていただきました。現在は、世界的に景気が低迷しているため、この取り組みへの新たな資金調達というのは難しくなってきています。

ですが、後世にこの文庫を残すために、資金調達のための努力を惜しむわけにはいかない、と肝に銘じております。この取り組みの中で重要な成果として一つ挙げられるのは、マイクロフィルム化された資料が現在では日本の国立国会図書館で閲覧可能となっていることです。さらに私どもの出版会社でありますベル&ハウウェル社の子会社プロクエスト社が、このマイクロフィルム化された資料を、様々な国の図書館へ、国際的にマーケティング活動を展開しております。それによりまして、全世界の人々がこのプランゲ文庫の雑誌、新聞を閲覧可能になるでしょう。

著作権使用料、収益はすべて、今後の保存作業のために使われます。我々の取り組みを上手くいかせるために、事業化的な側面も必要だと思っております。

さて今後の目標ですが、過去の成功をベースと致しまして、国立国会図書館との協力関係をより密なものにしていきたいと考えております。そしてまた、このような展示会を通しまして、この文庫に関する意識の高揚が図られればと思っております。また技術的な側面ではデジタル化を進めていかなかければならないと思っております。とりわけ、児童書というのはこのデジタル化に関して素晴らしい機会を提供していると思っております。

最近、米国議会図書館の協力のもと、メリーランドにおきまして国際児童書のデジタル図書館プロジェクトが立ち上がりました。その図書館には、プランゲ文庫からの数冊の本が含まれ、近い将来、国立国会図書館からの資料が含まれるということです。

現在は、このプロジェクトマネージャーに働きかけてメリーランド大学図書館としてもっとデジタル化にむけて積極的な役割を果たしたいという要請をしていることであります。こういった努力が、今後、皆様方がより一層プランゲ文庫をご利用しやすくなるための、第一歩となることでしょう。メリーランド大学は、この取り組みに対して固い決意で臨んでいきたいと考えております。国立国会図書館の皆様方からもその決意が伺え、私は、私どもが共に前進していくであろうということを確信しています。どうも御清聴ありがとうございました。