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国際子ども図書館主催の展示会のお知らせです。

講演会「冒険小説の魅力について
~池田宣政(南 洋一郎)コレクションにふれながら~」

平成15年7月19日(土)

二上 洋一氏(ふたがみ ひろかず 評論家・児童文学者)

ただ今、ご紹介いただきました二上でございます。車椅子などという大変ドラマチックな登場をしてしまいまして、「実は先月アマゾン川へちょっと冒険旅行に行きまして」と言うと非常に格好がいいのですが、実はタクシーから降ります時に足首を捻りまして、単純骨折してしまいました。あんまり名誉になる話ではありません。

一般の人間にとって冒険というのは多分遠いことのような感じがしますが、例えばこのような話はどうでしょうか。ささやかな冒険と言えるのではないでしょうか。

予めお断りしておきますが、今日の話では、固有名詞がたくさん出てきますが、すべて敬称略とさせていただきますので、ご了承いただきたいと思います。

40年程前のことになりますけれど、私がまだ若い時の9月21日、花巻に行きました。ご存知のように宮沢賢治という作家があそこの出身です。宮沢賢治の命日が9月21日なのです。花巻市が市を挙げて賢治祭というお祭を開催します。命日がお祭と言っていいのかわかりませんが、賢治祭と銘打っていますのでお祭なのでしょう。「雨ニモ負ケズ」という有名な詩碑があり、その詩碑の前でキャンプファイヤーのように火を焚きまして、地元の小学校の生徒が演劇をしたりそれから地元の農家のお母さん達がコーラスを歌ったり、地元の人たちが楽器を演奏したりして、皆で集まって楽しんだりして、宮沢賢治を偲ぶといったお祭です。それに出席した後、たまたまそこで知り合いになった方がおりました。宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』という映画を影絵で作ったプロデューサーです。その人と非常に親しくなり、20代半ばの男が二人集まりまして、翌日、種山ケ原(たねやまがはら)に行ってみないかということになりました。種山ヶ原というのは、賢治の作品の中に出てきます『風の又三郎』の舞台になったと言われている小さな集落のあるところです。

翌日の朝、花巻の駅を二人で東北本線の普通列車に乗り、水沢で降ります。水沢という駅から東側、東京から行くと右側へずっと山の中にバスが入っていくわけです。バスは、午前一便、午後一便の一日二便しかありません。午前中遅くに花巻を出たものですから、午後の便のバスに乗りまして、九十九折(つづらおり)の山道をずっと登っていきました。そして終点の種山ヶ原へ夕方着きました。

そうしましたら運転手さんが「君達、どこへ行くのかね」と聞くので、「種山ヶ原をちょっとぶらぶらします」と言ったら、「帰りはどうするのだね」と聞きます。「帰りは下まで降ります」と言ったら、「このバスはこのまま帰ってもう後はバスないよ」と言うのですね。40年前ですと車が今ほど発達していないのですからタクシーなどももちろん通っておりません。それでも若い男二人ですから、追剥が出るわけでもないし、その辺に野宿してもいいからぶらぶらしようということになり、彼と一緒に歩いていきました。少し行くと岩手県立の種畜牧場という牧場みたいな施設があり、その前に雑貨屋がありまして、そこで酒を一升買いました。そしてそこの宿直室へ泊めてもらおうということになりました。まあ図々しいですけど、若い男二人だと大概のことは通ってしまうのでそのまま種畜牧場に入っていきました。種山ヶ原は高原ですから夏でも涼しいので、9月21日ですと夜はかなり寒いです。たまたま全国から高い競馬用の馬が避暑に来ているのです。それに付いてきている博労の泊まる部屋があるので、そこに行きまして「泊めてくれないか、お金はあまりないけど、酒を買ってきましたから飲んでいるうちに朝になると思うので」と言いましたら「お前らは馬より安いから世話をしてあげられないけれど、ただ寝るだけだったらその辺にごろっと寝ていいよ」と言われまして、みんなで酒を飲みながら一晩過ごしました。

翌日の朝、高原は朝が明けるのが早くて太陽の光が射してきます。外に出ると牧場の隣に小さな山の分校がありました。低学年と高学年のクラスが二つしかなく教室は一つしかありません。先生が二人おりました。ご夫婦の先生らしくて男の先生は、子どもを負ぶって朝ご飯を一生懸命作っており、女の先生は教室を一生懸命掃除しています。まだ始業時間からみるとかなり早い時間に子どもたちが「先生、おはよう」と学校に出て来るのです。子どもたちの親は大概が牧場で家畜を飼う仕事をしておりますので、朝日とともに働きに行き、夕日とともに帰ってきてその後寝るという生活らしいのです。だから子どもたちは、朝早くご飯を食べて行くところがないから学校に行き、校庭で遊んでいるわけです。朝日が射してきますと風が牧草地帯を渡ってきまして緑の牧草が風に揺れて、お日さまの光が金色にきらめきます。そういう風景を初めて見ましたのでいたく感動しました。ささやかな冒険でしたが、やっぱり冒険旅行というのは、こういうところにいいところがあるのだなとその時、甚く感心した覚えがあります。一般人のささやかな冒険です。

そのへんのところから冒険というものを考えてみたらどうかと思います。岩波書店の広辞苑によりますと冒険というのは「危険を冒すこと、成功の確かでないことをあえてすること」と書いてあります。それから多分、今一番内容が豊富で、語彙(ごい)数が多い国語辞典だと思います小学館の『国語大辞典』によりますと「冒険小説というのは主人公が冒険により危機を克服していく過程を主内容とした青少年大衆向けの娯楽小説」と書いてあります。ですから危険を冒す冒険をするのが、本格的に言われている冒険なのかもしれません。

それでなぜ危険を冒してまで冒険をするのかということですが、人間には他の動物と違って知的好奇心というのがあります。未知のものに対する憧れだとか未知のものを知りたいという知的好奇心、これが他の動物と違うところだと思うのです。例えばイルカは非常に知能が高い動物だといわれておりますが、イルカがツアーを組んで陸に上がって来て、汐留にラーメンを食べに行ったという話は聞いたことがありませんし、人間に一番近い知能を持っているといわれている猿もサンゴ礁を写真に撮ろうとしたなんていう話も聞きません。みんなそれは、人間の知的好奇心から起きた冒険だろうと思うのです。知的好奇心は年をとってくるとだんだん薄れてくると言われています。けれども決してそういうことはありません。

ここにもう一つ少しおもしろいものがありましたので、持って来ました。宮沢賢治の弟で宮沢清六という人がおります。この方からの手紙です。昭和58年(1983年)の手紙で「シルクロードを旅してみたいと思っています」という文言が書かれていまして、「好奇心はいつまでたっても衰えるものではありません」というようなことも書かれています。先月の6月12日が宮沢清六さんの3回忌の命日で、私はお参りに行ってきた際に、(この手紙を頂いた)昭和58年当時、清六さんがいくつぐらいだったのか、そして実際に旅したことがあるのかということを孫の和樹(かずき)さん、(孫といっても35歳くらいになりますが)と話をしているときに聞きましたら、なんと一緒にシルクロードに行ったそうなのです。孫と一緒にシルクロードをずっと旅したそうです。「おいくつの時ですか」と聞きましたら、「80を超えていました」と言っていました。ですから知的好奇心は、決して年齢によって衰えるものではなくて、人それぞれに個人差があって、好奇心の旺盛な人は、それによって色々と新しい未知の世界へ冒険をしていくことになるのだろうと思います。

冒険というのは何かと言いますと、先程申し上げたように、危険な所に行くということなのですが、ここに『未知の世界へ』という図録がありまして、この中に冒険小説の簡単な歴史と魅力がまとめて非常にわかりやすく書かれていますので、これをお読みいただければそれで私の話よりはいいのではないのかなという気がしないでもありません。内容は非常にまじめな書き方をしておりますので、ここに書かれていないようなことを敷衍(ふえん)する意味で冒険小説にまつわるエピソードのようなものをお話してみたいと思います。

冒険というのは、一つは二次元の世界で地図上のとでもいいますか、現実にある土地を未知の世界、未知のものを求めて旅をすることです。最近は衛星や何かが発達しまして人間の行かれないところというのは殆どなくなりました。地図の空白の部分というのはなくなりましたけれども、それでもまだアマゾン川の上流のマットグロッソ、コナン・ドイルの『ロスト・ワールド(失われた世界)』に出てくる世界ですね、ああいう所はまだ人跡未踏とまではいかないですが、そんなに簡単に行かれるわけではありません。それから第三次元の海の中へ潜っていくと、深海の方はまだ人間の知恵が全然及ばないところもたくさんあります。それから上へ目を挙げれば、衛星がたくさん飛んでいるとはいってもせいぜいキロで測れる距離しか行ってないわけで、何光年という世界には、まだ未知のものがたくさんあってそこに行くのも冒険の一つだろうと思います。後でちょっと触れますが、火星探検とか月世界探検とかそういう小説もたくさん書かれています。日本では、野村胡堂が大正時代に『月世界探検』を書いています。このように高さを加味すれば、未知の世界はもっと広まっていきます。

そこまでですと第3次元の世界までですが、第4次元の世界というのがありまして、これは時間が加わります。時の流れです。30光年なんて言われても我々にはピンと来ません。もうその世界になりますと時の流れとそれだけに限定するのが大変難しくて、空想の世界が入ってきます。ファンタジーの世界が、オーバークロスするみたいに流れてきます。そこまで冒険小説のジャンルを広げますとそれは、大変広くなります。今回は、この展示のところを拝見しましたけど、そこまでは広げていないようです。今はやりのハリー・ポッターとかロード・オブ・ザ・リングとかファンタジーの世界もやっぱり冒険小説のジャンルの一つに、最近は数えられています。冒険小説の定義は、大変難しく、先程辞書での定義は申し上げましたが、青少年大衆向けの娯楽小説、最近の格好いい言葉でエンターテインメント言われますけれど、基底は娯楽小説なのです。日本の悪いところでありまして、つい最近、芥川賞と直木賞が決定しましたが、冠をかぶっているのは芥川竜之介ですので芥川賞は純文学、直木賞は直木三十五なので大衆文学というふうにジャンル分けされています。大衆文学と純文学とどう違うのかと言われましても、はっきりしません。昭和20年代の終わりくらいに中間小説というジャンルが出て来まして、例えば舟橋聖一(ふなばし せいいち)とかあの辺の人たちが主張しました。中間小説まで範囲に入れると純文学と大衆文学の区別というのは非常につきにくくなってきます。大人ものの文学がそうなのですから、当然児童文学に関してもジャンル分けがされているわけです。例えば、坪田譲治、浜田広介、小川未明は、児童文学界の三種の神器と言われています。その人達は、芸術的児童文学と呼ばれています。私は文学的児童文学と主張しているのでこちらを使います。それから今日展示されておりました中核になっております吉川英治、大佛次郎は、中間小説に近いものもありますけれど、江戸川乱歩、山中峯太郎、この辺のところは大衆的児童文学です。大衆的児童文学が文学的児童文学より評価が低いというのは大変おかしいことです。一概に数だけで評価してはいけないのですけれど、作品を読んだ人の数からいけば、江戸川乱歩の『怪人二十面相』シリーズなんて今でもベストセラーになっておりまして子どもたちはよく読んでいます。決して読まれているからいいとはいえないですが、それだけ読まれているのに、どうして児童文学の歴史の中から抹殺されているのだろうかという素朴な疑問がありました。それで大衆文学を体系的に読んでみようと思って始めたのが、(私が冒険小説に取り組む)最初のきっかけだったのです。

今でも、「大人もの」だと冒険小説を読んでいる人って限られてくるのではないかと思うのです。例えば本格的な「大人もの」といいますと「大人もの」のルパンです。ルブランのフランスの小説で冒険小説の一種です。

これは余談ですが、私の友人が南洋一郎のルパンを読みまして、これは大変おもしろいと思い、大人になってから翻訳家になりましてルブラン全集の全訳を試みたのです。そしたらいつまでたっても始まったという話は聞くのですけれど出版されないので、ある時、彼に「あれは、どうしたの」と聞いたら、「読み始めたらつまらないのだよ、少年物の方がずっとおもしろいのだ」と言うような返事でした。必ずしもルパンのものはつまらないということではないのですが、ルパンものは戦前、保篠龍緒(ほしの たつお)という人が翻訳をした「大人もの」があります。

イギリスの冒険小説の話です。マクリーン『女王陛下のユリシーズ号』とかモーム『秘密諜報部員』、ヒギンズ『鷲は舞い降りた』、アンブラー『あるスパイの墓碑銘』などこういう冒険小説の古典と言われているものがあります。今挙げた何人かのほとんどがイギリスの作家なのです。今日、展示の所にあります児童文学の歴史、発展、過程をご覧になるとわかるように児童物に関してもイギリスの作家が非常に多いです。ジュール・ベルヌを除くと有名なところでは、『宝島』のスティーブンソンを初めとして大半がイギリスの作家です。なぜイギリスがこれだけ冒険小説が盛んなのかと言いますと、かつてイギリス大英帝国は日の沈むときはないと言われた位、つまり朝になれば他のところが夜と、地球の裏側にまで植民地を持っていたわけです。だいたい冒険小説と帝国主義とは、非常に密接な関連があってその辺のところを深く追求していくと大変難しい問題が出てきてしまいますので、これには触れません。

小さい島国でありながらイギリスは世界中を征服したと言われているくらいの植民地を持っておりましたので、海洋つまり海に出て行くことが多かったわけです。海洋冒険小説を基本に無人島や孤島ものがあります。文化のまだ広がってないところへ新しい文化を植え付けようとするような動きもイギリスは盛んだったわけです。さっきの『鷲は舞い降りた』や『あるスパイの墓碑銘』などはイギリスのものです。スパイ物の場合は、アメリカとソ連が冷たい戦争をしていた時に、非常に発展しました。ご存知の007(ゼロゼロセブン)というスパイがおりますが、これもイギリスのMI6という組織に属しているスパイだったのです。イギリスは、海に出て行くということに付随して冒険小説が生まれてきて、大変盛んになりました。

日本の場合も島国ですし、周りを海に囲まれてかつては大日本帝国海軍というのがありまして、もっと冒険小説が盛んになってもいいのじゃないかと思えるのです。しかしその前の江戸時代の鎖国がありますので、あの鎖国の時代には望んでも国の外へ250年くらい出られなかったわけです。冒険は、国の中だけに限られてしまい海外を舞台にした冒険小説が成り立たなかったわけです。ただその前は、日本にもシャムに渡った山田長政とか八幡船と呼ばれた海賊、八幡大菩薩の旗を掲げて海賊として大陸を荒らしまわったという話がありますので、その頃は冒険の要素が生きていたわけですけれど、江戸時代になってその要素がなくなったわけです。それが明治になりまして、日清・日露戦争が起こり大陸の他の国を相手に戦争をすることになって冒険的要素が再燃しました。その頃から、具体的に言いますと、明治33年から新しい冒険小説の流れが押川春浪などによって作られてくるということになります。

先程、外国の「大人もの」の冒険小説をいくつかあげましたので、日本の「大人もの」の冒険小説にはどういうものがあるかお話します。結城昌治(ゆうき しょうじ)という直木賞作家がおります。この人の『ゴメスの名はゴメス』という傑作スパイ小説があります。それから三好徹の『風は故郷に向かう』もおもしろい小説です。昨年亡くなりました生島治郎の『黄土の奔流(こうどのほんりゅう)』。これは生島が生まれた中国大陸を舞台にした冒険小説の傑作と言われています。

またまた余談になってしまいますが、生島治郎というのは、本名小泉太郎という名前です。早川書房の『エラリー・クイーンズミステリマガジン』の第2代編集長です。初代の編集長はご存知と思いますが、ミステリー文学大賞を去年受賞しました都筑道夫です。都筑道夫は初代の編集長でハヤカワポケットミステリ叢書を作り上げた人で今は作家専業です。体の調子が悪いと伺っていますが、この前の授賞式の時もいらっしゃっていました。お身体が弱くなられていて、もっとたくさん書いてくれればいいのにと思いました。その二代目の編集長小泉太郎さん=生島治郎さんが作家になりまして書いたのがこの本です。生島治郎の名前は、『片翼だけの天使』という小説でご存知の方も多いと思いますが、外国人の奥さんとの結婚生活を描いた小説で、結婚は途中でだめになっていくのですけれど、有名になりました。

ついでに生島治郎さんの最初の奥さんは、小泉喜美子さんという推理作家です。この方も亡くなりました。小泉喜美子さんは、小説を何点か出版しておられます。洒落た都会小説が得意な方です。猛烈な酔っ払いで、私は何べんかお目にかかっているのですけれども、いつお目にかかっても酔っ払っています。夜だからというわけではありません。昼でも朝でもいつお目にかかっても酔っ払ってます。酔っ払って階段から転げ落ちて亡くなりました。本人は本望だったのではないかと思います。小泉喜美子さんの方も大変変わった方でした。少し関わりがありますけれど、冒険小説の評論で有名な方に内藤 陳(ないとう ちん)という人がいます。かつては、「ハードボイルドだぞ」というセリフで有名なコメディアンとして活動されていました。その方と小泉喜美子さんが太郎さんと別れた後、同棲していた人です。一度、マンションに伺ったことがあるのですけれど、内藤陳さんが照れくさそうな顔をしておりました。新宿に「深夜プラス+ワン1」というバーがあるのですけれど、ご存知じゃないでしょうか。『深夜+1(しんやプラスワン)』とは、これまた有名な冒険小説のタイトルです。そこを主宰している人で大体そこに夜中にはいらっしゃいますね。推理作家や冒険小説の作家がたくさん集まってきています。新宿のゴールデン街です。それこそ女の人が一人で行ったりすると危険があるところです。なるべく行くときには男の人と一緒の方がよいと思います。ちょっと話がどっかにいっちゃいました。

生島治郎さんに続いて、『山猫の夏』を書いた船戸与一という作家がおります。この人は、冒険小説専門です。「山猫の夏」で始まる南米三部作というのがありまして、その後『虹の谷の五月』で直木賞を受賞しています。お目にかかったことがあるのですけれど、大変豪快な人でした。確か早稲田大学の探検クラブだったのではないかと思うのです。最近はそうでもないのですが、若い頃はほとんど日本にいないであちこちを漂流して歩いていた豪快な人です。もう一つ『カディスの赤い星』というスペインを舞台にした小説を書いている逢坂剛、現在は日本推理作家協会理事長です。スペインを舞台にした小説はほとんど冒険小説です。

ところで、冒険小説は、元々推理小説の中の一ジャンルだったのです。推理小説の歴史になるとこれまた大変なことになってしまいますが、元々は探偵小説だったのです。探偵小説と呼ばれていた頃、本格探偵小説というのがありまして、これは横溝正史に代表される事件があって、名探偵が出てきて謎を解明していくというお馴染みの探偵小説。探偵小説の中に本格探偵小説と並んで変格探偵小説というのがありまして、これは他のいろんな分野のものが入っています。例えば、SF小説、ホラー、冒険小説。この辺のところが、推理小説の中からはみ出してしまいジャンルとして一本立ちしてしまったのです。一本立ちしてそれぞれの作家が出て、書かれるようになってきました。

ついでながら私の話には余談とついでが多くて困るのですが、探偵小説がどうして推理小説と呼ばれるようになったかといいますと木々高太郎(きぎ たかたろう)=林髞(はやし たかし)という慶応大学の医学部の教授が推理小説を書きまして、直木賞を受賞しております、この木々高太郎が探偵小説も文学でなくてはいけないという論を主張しました。それに対して江戸川乱歩が探偵小説は、ただの探偵小説でいいという擁護論を出しました。そうやって論争したのです。その時に木々高太郎が、文学であるべき小説なのだから探偵小説ではなくて推理小説というべきだと主張しました。それと同時に国語の漢字制限がありまして、探偵の偵という字が使えなくなったのです。だから探偵小説と銘打てなくなったのです。そのために色々考えて推理小説でもいいのではないかということになって、推理小説となりました。そして、少し後に社会派推理小説と呼ばれている松本清張が登場しまして『点と線』、『眼の壁』など新しいスタイルの探偵小説を書き始めて、推理小説という言葉が定着したということになります。あんまり歴史の話をしてしまうと時間がなくなりますので、子ども向けの冒険小説に話を移します。

イギリスを中核にした冒険小説の中で代表的なのが『宝島』、『ロビンソン・クルーソー』です。これは児童冒険小説の源流といいますか、一番最初と言ってもいいのではないでしょうか。添付の説明を読んでいきますと−無人島生活を基調にして新しい小説を書く−とあります。このようなものが次々と登場するようになりました。有名なのは『スイスのロビンソン』です。これは決して真似をしているのでもなく、まして亜流でもなくて、『ロビンソン・クルーソー』に触発されて新しい小説を作り上げていったわけです。そして『宝島』。イギリスの場合は、大衆児童文学なんて言わないのです。大衆児童文学なんてないのです。逆に文学的な児童文学もないです。つまり子供の読むものは全部児童文学なのです。ですから『宝島』が児童文学として高く評価されるわけです。もちろん内容がおもしろいということもあります。国民文学でもあるのです。

他の国ではずしていけないのは、ジュール・ベルヌ、フランスです。「SFの父」と言われています。SFも昔は空想科学小説と呼ばれていまして、科学的知識を基礎にした冒険小説が空想科学小説だったわけです。サイエンス・フィクションという認識がありましたけれど、最近はサイエンス・ファンタジーだという人もおりますので、色々と新しい呼び方も出てきます。ジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』、原題『二年間の休暇』は、単純明快な冒険小説です。SFの世界では、科学的知識を駆使して一番有名なのは『海底二万里』です。ネモ船長率いる潜水艦ノーチラス号、原子力潜水艦のような設備を持っている潜水艦を主人公にして書いた小説です。ジュール・ベルヌの小説には、日本でもたくさんの人が影響を受けています。一番強く影響を受けたのは、海野十三だと思います。後の方で時間がありましたら、海野十三についても触れてみたいと思います。現代の作家の中でもジュール・ベルヌの影響を受けている人はたくさんいます。

次にアメリカです。アメリカの歴史は浅いのですけれども、海外に出て行くような冒険小説ではなくて、東海岸から西海岸に移っていく開拓時代を舞台にした冒険小説がたくさん書かれています。開拓時代とは違いますが、有名なのはマーク・トゥエインの『トムソーヤの冒険』、『ハックルベリーフィンの冒険』、少年を主人公にしたいかにも冒険小説らしい小説です。ああいう冒険小説が私は好きです、日本人にはなかなか書けない作品だと思います。

日本の冒険小説の話です。千葉省三が栃木県を舞台にして田舎の生活を書いたいくつかの作品があります。これは文学的児童文学の中に区分されていますので、冒険小説とは言えませんが、あの中に冒険的要素を持っているものが何点かあります。それとこれはあまり有名ではないのでご存知ではないかもしれませんが、柿原 啓吉(かきはら けいきち)という作家が戦前、『母島の子供たち』という小笠原諸島の母島を舞台にした小説を書いております。これは母島の日常生活を書いていて、冒険小説的要素が少し含まれています。いい小説です。

小笠原が出てきたところで余談です。小笠原諸島といいますと、忘れてならないのがサトウハチローです。「エンコの八」と呼ばれて浅草を荒らしまわっていた少年、サトウハチロー。最近、佐藤愛子さんが『血脈』という全3冊の大変な佐藤家一族の血族関係を赤裸々に描きましたので、少し嫌だなあと思う方もいらっしゃるかもしれません。サトウハチローは、お父さんが佐藤紅禄(さとう こうろく)です。

サトウハチローが浅草で遊んでいた時代、大正の中頃でしょうか、警察に捕まりまして少年院に送られることになります。お父さんの佐藤紅禄は、『日本』というどちらかというと右翼系の雑誌を編集していた方なので大変、思想が謹厳実直な方でした。思想がです、実生活はものすごい人ですが。考え方がそうなので、サトウハチローを少年院に送るなんてとんでもない、それだったら自分が少年院を作ってそこに流してやると言って、小笠原の父島に家を一軒借り、自分の弟子である福士幸次郎(ふくし こうじろう)という詩人をつけて、サトウハチローを流しました。サトウハチローは、福士幸次郎と一緒に9月の秋の最中に、暗い東京を離れてとても明るい小笠原の父島に渡ったわけです。父島は、日本の領土ではありましたがその前にあちこちの国の人が住み着いていました。そこに住んでいたアメリカ人の宣教師の娘さんに仄かな初恋の心を抱きまして初めて詩をつくります。福士幸次郎が詩人であったために多分、アドバイスがあったのだろうと思いますが、初めて『小笠原』という詩を書いています。後年、『少年倶楽部』に発表されました。これも良い詩です。『僕等の詩集』など、詩人としてサトウハチローの天性の才能というのは得がたいものがあると思います。大人物の詩集『爪色の雨』の中に雨が爪のような色をしているという詩があります。あの人の詩というと『おかあさん』が非常に有名ですけれど、それだけでなくて詩人としての尖った感覚というか研ぎ澄まされた感覚というのが非常によく詩の中に出てきます。余談できて、またまたついでながらというともっと余談になってしまうのですが、「明かりをつけましょ、ぼんぼりに」という童謡がありますでしょう、あれはサトウハチローの作詞です。サトウハチローが自分の姉妹、お姉さんだったかを偲んで作ったと言われている童謡です。あんなに売れるとは思わなかったというサトウハチローのコメントを読みました。

それから昨日の午前3時頃、NHKの深夜放送を聞いておりましたら山中峯太郎作詞の童謡といって『万国の王城』が放送されました。珍しいと思われませんか。私は初めて聞きました。『万国の王城』というのは、蒙古を舞台にした蒙古独立運動を日本の少女が助けるという『少女倶楽部』連載の小説です。それの主題歌というか小説ですから主題歌はないですが、それを元にした童謡です。北条美佐子という少女の主人公が出てくる小説です。ここで展示されているそうですから、ご覧になって下さい。確か少女が馬に乗っている絵がカバーだったような気がします。

日本の場合は、島国でありながら冒険小説は限られておりました。何人かの冒険小説の作家がそれでも登場していまして、『少年倶楽部』を中心にして発表されていたわけです。『少年倶楽部』は、展示の中にたくさん並んでいます。最近はなかなか手に入らなくなってきましたので、買いたくても少し難しい部分はあります。「少年倶楽部文庫」というのが講談社から10年前位に出版されています。これは新本の本屋にはおいてありませんが、古本屋では時々見かけますので、もしどうしてもご覧になりたいという方は、古本屋を探すと見つかると思います。

日本の作家の場合は、まず挙げなくてはならないのが南洋一郎(みなみ よういちろう)です。最初に紹介頂いたように私は南洋一郎のファンだったわけです。二上洋一というのは、実はペンネームでありまして、洋一がそっくりそのままパクったというのは、言い方が悪いですけれど、頂いたわけです。下世話な話をすると笑われますけれど、児童文学で原稿料をもらえるような評論というのは今時、注文がありませんので、どちらかというと推理小説の月評とか推理小説の文庫の解説とかの仕事が多いのです。児童文学の評論だけでは、とてもとても生活できません。かつて『幻影城』という推理小説専門誌がありまして、そこで月評を担当することになった時にその編集長がたまたま大学のクラブの先輩でした。私は、早稲田大学のミステリークラブの出身で、その編集長は、ミステリークラブの先輩だったのです。その編集長がペンネームをつけろという話になり「ペンネーム、うーん」と唸って「何とつければいいですか」と聞くと「一番、好きな人は誰だ」と聞くのです。当時、日本将棋連盟の会長だった二上達也九段が七段当時、ものすごく切れの良い攻め将棋を展開する人でした。函館の方の出身でその人の将棋の気風が好きだったので、「二上さんがいいなあ」と答えると「苗字は、二上」となり名前は「好きな作家誰だ」「南洋一郎」、「それでは、洋一」でもそのままだとあまりにも芸がないので呼び方を「ひろかず」にしました。二上洋一ペンネームの由来です。あっという間に名前がつけられてしまいまして、それ以来40年近くこの名前で通しています。

南洋一郎について、説明します。この『未知の世界へ』の図録の中に南洋一郎の説明もありますので、読みます。−1893年(明治16年)から1980年(昭和55年)まで本名 池田宜政(よしまさ)、青山師範学校卒業−という簡単な説明があります。私が最初に池田家にお邪魔しましたときは、先生ご存命で少しお話をさせていただきました。南洋一郎(なん よういちろう)という人がいるのですね。先生は「私は、なんよういちろうではありません」と言っておられました。ところで本名を池田宣政(のぶまさ)だと思っている人が当時の少年倶楽部のファンの中にもたくさんいましたが、本名は、池田宜政です。図録を見ていただくとわかりますが、宣政は宣伝の宣という字です。非常によく似ているのですが、宜政は少し違います。たまたま『懐かしき丁抹(デンマーク)の少年』というボーイスカウトの思い出を書いた原稿を『少年倶楽部』に投稿した時に、『少年倶楽部』の人が間違えて「池田宣政(のぶまさ)」という読み方をしてそのまま発表したのです。それをそのままペンネームで通してきている。池田宣政は、南洋一郎というペンネームの他に荻江信正というペンネームがあります。荻江信正というペンネームは、学校小説、学校を舞台にした小説とか自分の身辺を取材して書いた小説の場合に使われているペンネームです。『少年倶楽部』の一時期、南洋一郎、池田宣政、荻江宣政3本の小説が載っているようなときもありました。非常に人気作家だったわけです。簡単な区分けをしますと南洋一郎が冒険小説、池田宣政が伝記及び感動小説、荻江信正が身辺小説です。南洋一郎の名前で感動小説を書いたり、池田宣政の名前で冒険小説を書いた場合もありますので厳密には区別がつきにくいところもあります。

例をあげますと『バルーバの冒険』全6冊は、池田宣政と南洋一郎を融合して、つまり感動小説と冒険小説のおもしろさを一緒にして小説を書こうということで生まれたと言われています。諸般の事情がありまして、第6部目はなかなか刊行されませんでした。具体的に話しますと昭和21年に手塚治虫さんが『新宝島』で漫画の世界へ参入してきて、急激に漫画が読者層を増やしていきます。それまで発表の場であった少年誌がどんどんどんどん漫画誌に移行していくわけです。ことに『少年サンデー』、『少年マガジン』の週刊誌ができてからは、小説誌がほとんどなくなって漫画中心になるような雑誌の作り方になっていき、少年読者が小説を読まないで漫画の方へ移行していったわけです。六部作というと単行本が6冊あるわけです。だから何回か出版されているわけですけど、途中で皆、中断してしまうわけです。その度に『第6部 秘宝を追って』のその最後のところが単行本になっていなかったのです。たまたまほるぷ出版の『日本児童文学体系』で南洋一郎の年表を作った時に、伺ってお話をしておりましたら、実はあれは完結しているのだという話を聞きました。私はバルーバファンでしたが、5冊なんてとんでもありません。私のところは田舎だったのものですから本屋さんも1軒しかなく『バルーバの冒険』は、第1巻だけ入って来て、後は入ってこないのです。読みたい、読みたいと思っていても読めないわけです。ラジオを聞いていると「バルーバの会」なんてのができたという話があって、それでも田舎の少年にとっては、どうやったら入れるのかわからないわけです。ちなみに私は小学校2年で終戦になりました。小学校6年くらいになってもあんまりそういう知恵がなかったものでといいますか、情報がなかったもので読みたいという意識だけがずっと強く残っておりました。

三一書房の『少年小説大系』の時には『バルーバの冒険』の完結編を読みたいがために紀田順一郎さんという評論家の方と、今日いらしてます学芸大学教授の根本正義教授と3人で編集を請け負いました。非常に個人的な意見ですが、読みたいからぜひ入れたい、あれは傑作なんだからぜひ入れて下さいと言いました。但し6冊分あるので1冊にはまとまらないのです。1冊分にそれを入れてしまいますともっと入れたかった『形見の万年筆』など池田宣政という名前で書かれている部分の感動小説がはみ出てしまうわけです。色々と考えまして、三一書房の社長や池田さんや根本さんとも相談しまして、二つに分けて第1巻目の方に3部まで第2巻目の方に残りの3冊と分けて、やっと完結したという曰く付きの作品です。読めてよかったです。大変楽しい作品だったと思います。これが今度の池田宣政コレクションの中に入っているわけです。

ところで、南洋一郎は、推敲の非常に多い人なのです。推敲が多いと言うと宮沢賢治が有名です。宮沢賢治の場合は、生前に単行本になっているのは童話『注文の多い料理店』と詩集『春と修羅』の2冊だけです。全部、原稿用紙に推敲されていました。そのために今は『校本宮澤賢治全集』となっていまして、推敲の跡を入沢 康夫(いりさわ やすお)氏が追跡しています。

池田宣政の場合は、既に出来上がった単行本の中にずっと書き込んであるのです。私が前に伺った時にも、病床で単行本の推敲をされていらっしゃいました。見本を持ってきたので、見てください。(見本を見せながら)古いのでバラバラにならないように、専門家に頼んで装丁をやり直してもらいました。『潜水艦銀龍号』という本です。毎日新聞社の前身、東京日日新聞の出版で昭和14年、定価1円。これを見ますと、赤ペンでびっしりと直しが入っています。もう1度出版するとしたら、重版するか再版するか、新しくやるとしたら大変なことだと思います。常に新しいものを取り入れて書かれていた本当に真面目な方です。

図録には、簡単に小学校教師とか師範学校卒業とか書いてありますが、祖父が長岡藩の河合継之助の重臣だったわけです。おじいさんが幕末の戦争で負けまして、あちこち逃亡生活を送った後、東京の郊外に定着します。大変、貧しかったと聞いております。小学校に入る時もエピソードがあります。学校が好きだったので毎日、学校に入る前から遊びに行っていたらしいのです。それで普通ですと翌年の4月から新入学するのですけれど、その前の年の10月だか11月に新入生として入学しているのです。当時は自由がきいたのでしょう。大変勉強が好きだったようです。ただ貧しかったので、小学校6年生で卒業後に、丁稚奉公に出され、丁稚とは今の方はあんまりご存知ないと思いますが、住み込みで働く店員みたいな人です。夜は、節電ではないですけれど、今みたいに自由に本を読んだりはできないし、本自体が買うことが大変だったので、当時、早稲田中学校講義録という通信教育である本がありまして、それを安く買いまして、夜、店が終わってから一生懸命に暗い光で本を読む毎日だったそうです。店の主人は、電気代がかかるわけですから、あんまりいい顔をしないわけです。だから隠れて暗い光で一生懸命読んで、体を壊してしまうのです。それで実家に帰りまして、兄さんが送ってくれた本を繰り返し、繰り返し本当に繰り返し、繰り返し読んだそうです。一冊は『ロビンソン・クルーソー』、これが南洋一郎につながってくるわけです。もう一冊は『小公子』を非常に愛読したそうです。

南洋一郎の原点を考えますと、一つは『ロビンソン・クルーソー』だと思います。もう一つは、『クオレ物語』じゃないかと思うのです。あれは自分の教師生活とも関係して、一つの柱になっているのじゃないかと思います。だから『ロビンソン・クルーソー』と『クオレ物語』の上に池田宣政と南洋一郎が生まれてきたのだと思うのです。その2冊を繰り返し繰り返し読み、立川文庫なんかも読んだそうです。当時は、娯楽物というと本くらいしかなかったわけです。今、立川文庫を見ますとかなり難しい漢字がたくさん入っています。ただ総ルビなのです。仮名がふってあるのです。ですから小学生でも仮名が読めれば読める。もちろん読書力があるから読めるのです。それでたくさん色々な言葉を覚えたとご本人がエッセーの中でお書きになっているので、間違いないことだと思います。非常に勉強家だった。青山師範ですから英語は当然、学校で習ったのですけれど、ドイツ語とフランス語を独学で自由に読んだり書いたりできるようになっております。ドイツの少年と交流できたということでしょう。『形見の万年筆』は、ドイツの少年との交流の話です。何べんも日本の教科書、日本だけでなくあちこちの教科書に採用されている小説です。そういえば『形見の万年筆』に出てくる万年筆は、確か池田家に愛蔵されている筈ですけれど、今回は出品されておりません。きっと古いから壊れかけているのかもしれません。だって壊れてしまったという話ですから。感動的で良い話です。ああいう良い話が最近少なくなりまして、『一杯のかけそば』みたいに作られた話が有名になってますので、ちょっと考え物です。電車賃を節約するために大学と下宿の間を歩いて通ったという話も聞いております。教員になりましてボーイスカウトの代表としていくくらいですから、大変良い先生で、生徒達からも慕われてそういうエピソードもいくつかあります。そして『懐かしき丁抹(デンマーク)の少年』と『リンカーン物語』を『少年倶楽部』から出しまして、作家として人気が出てきて、学校をやめて作家専業になっていきます。その後、たくさんの冒険小説の傑作をお書きになっております。

今日は病院から抜けてきましたので、本をたくさんは持ってこられなかったのですけれど、ここにこんな本があります。『猛獣境探検記』小山荘一郎(こやま そういちろう)、昭和6年の本です。これは外国の冒険家が歩いた跡を翻訳している作品です。ですから最初に写真なんか出てきましてこういうふうに猛獣を撃ちましたとかいう話が出ております。この本の奥付をみますと昭和6年の8月に初版がでているのですけれど、9月にはもう8刷り発行となっていますので、かなり少年読者に読まれたのだと思います。ただ現在と違いまして、この違いは初版の次が3版になったり4版になったりすることもあるのです。鯖を読む形になることがありますので、必ずしも信用はできないですけれど、8刷りになっているということはよく売れたことは間違いないということです。これは冒険小説が好まれた一つの証拠といっていいだろうと思います。この図録を見て見ますと『緑の無人島』、『吼える密林』の写真も入っています。この二つは、南洋一郎の初期の傑作中の傑作と言えます。ただ個人的な好き嫌いだけで言いますと、戦前に『魔境の怪人』という単行本がありまして、下世話な話ですが、南洋一郎の古本の中で、今出てくるとこれが一番高いのではないでしょうか。1冊30万円くらいすると思いますよ。なかなか買えないというか出てこないし、みつからないです。傑作です。『バルーバの冒険』を読みますと『魔境の怪人』の一部がうまく利用されています。南洋一郎の特徴の一つに何遍か繰り返し同じ作品を出版すると同時に後から書かれたものの中に前の作品の感動的な部分をもう一回、繰り返して使うと言う手法を使うことがありまして、『バルーバの冒険』は南洋一郎の集大成ですからそういう意味ではその手法を使ったりしています。自分の作品ですから、盗作ではありません。他の人の作品だと困りますが、自分の作品です。南洋一郎の戦後の傑作は、『緑の金字塔』と言われている作品です。これは三一書房の『少年小説体系』の時に友人であります田中文雄(たなか ふみお)という恐怖小説を書いている作家がいるのですが、彼から絶対に『緑の金字塔』を入れてくれと言われていたのですけれど、どうしても枚数の関係で『バルーバの冒険』を入れると入らなくて割愛してしまったので後で彼に怒られました。インカ帝国を舞台にした名作です。

個人的に三大代表作を選びますと、『魔境の怪人』と『バルーバの冒険』と『緑の金字塔』だろうと思います。展示をご覧になって説明を読まれればだいたい南洋一郎、池田宣政の概要が掴めると思いますので、ぜひご覧になって下さい。

それから冒険展に登場する中でもう一人お目にかかっている人がおります。高垣眸(たかがきひとみ)という『怪傑黒頭巾』、『まぼろし城』『豹の眼(ジャガーのめ)』をお書きになった方です。広島県尾道の出身です。これもほるぷ出版の時に関係しているのですが、高垣眸ご自身に手紙を出しまして、そちらにお伺いしてお話を伺いたいと書きました。返事が来まして、「近くの勝浦の駅までお迎えに行きますから来て下さい」と書いてあります。そして署名が「5時59分の男より」と書いてあります。鈍感な方なので、どういう意味かわからなかったのですが、お目にかかって最初に「高垣です」と向こうから声をかけられて、杖をついたおじいさんが向こうからいらして「5時59分の男です」と言われるものですから、「5時59分の男ってなんでしょうか」と聞いたら、「もう6時だ、耄碌じいだ」とおっしゃいました。色々話を伺っていると『怪傑黒頭巾』というのは名作で大友柳太朗の主演で映画化されたり、戦後、何回かドラマにもなっています。覆面をした怪傑黒頭巾でありながら、人は斬りません、人を斬らないのが怪傑黒頭巾の特徴です。山鹿流の兵法の達人なのですが、人を斬りません。「少年もので人を斬ってはいけない、殺してはいけないと私は思うのです」と言っておられました。広島県の出身なので海軍兵学校を志望して海は大好きで、『宝島』をヒントにしたと言われます海を舞台にした小説でスタートするのです。小柄ですが大変豪快な方です。奥様が小さな屋台みたいなものを引いてきまして、「寿司屋をやりますから食べて下さい」と言って寿司を握ってくれました。寿司をつまみながらいろいろ話を伺いました。

高垣眸は戦後『凍る地球』というSFを書きます。これはあんまりご存知ない方が多いと思いますが、深山百合太郎(みやま ゆりたろう)と共作という形をとっています。勝浦で知り合った人との共作だとおっしゃって、正体は明かしてくれなかったのですけれど、親友の一人であります曾津信吾(あいづ しんご)君が色々と戸籍などを調べわかったのは、浅野卯一郎というかつて海軍の大佐となった人がいて、終戦になりまして故郷の勝浦に引っ込みまして高垣眸と友達になりました。そして自分の持っている科学的知識を高垣眸に教えて、そして出来上がったのが『凍る地球』です。これは『凍る地球』、『燃える地球』、『恐怖の地球』の三部作です。その後、彼は独立して『東光少年』などに深山百合太郎という名前で小説を書き始めました。必ずしも知識と小説のおもしろさというのは一致しないものなのですね。深山百合太郎の名前で書く小説と言うのはおもしろくないのです。正直言って、だからあんまり後に残らないようなことになったのですね。

これもついでですけれど、当時SFというと『地球S.O.S』という小松崎茂(こまつざき しげる)の絵物語がありましてこれもまた大変おもしろい作品でした。小松崎さんもこの前、亡くなられました。他のところの宣伝、PRみたいで申し訳ないのですが、本郷に弥生美術館というのがありまして、そこで小松崎茂さんを呼んで座談会をやった記録が残っていました。もうああいうのは時代遅れだとおっしゃっていましたけど、SFがまだ海野十三しかいなかった時代ですから、非常に珍しかった時です。『宇宙戦艦ヤマト』というのがあります。松本零士の漫画で、アニメで有名になりました。その原作は、高垣眸です。西崎義展 案、高垣眸 著という署名が入っています。『宇宙戦艦ヤマト』の原作だと本人が自慢しておりました。「お前、知らないだろう」と言うので、「知りません」と言ったら、怒られました。大変珍しい本です。高垣眸という人も、逸話の多い人で有名なエピソードが残っているのですが時間がなくなってしまうので、次に進みます。

次に押川春浪です。押川春浪は、本名が押川方存(おしかわ まさあり)。日本の冒険小説の「生みの親」か「育ての親」でしょう。明治33年から始まる『海底軍艦』これが大変なベストセラーになります。押川春浪は、サトウハチローによく似ています。サトウハチローは、中学校を8校位転校しております。押川春浪もあちこち転々と学校を転校して歩きまして、というのは学校が置いてくれなくなるのですね。一番有名な話は、教室で犬を焼いて食ったという話がありまして、そういうことをするものですから学校が置いてくれなくなってしまうのです。それであちこち学校を転々としたわけです。数年前、「はね駒」というNHKの朝の連続ドラマがあったのを覚えていらっしゃるでしょうか。東北の少女が東京に来て生活をしていく話です。ヒロインは、斎藤由貴だったかな。あの中に東北の仙台の教会の牧師が出てきます、その役を元タイガースのジュリー、沢田研二がやっていました。あの牧師のモデルは押川春浪のお父さんです。お父さんは、東北学院を作った人です、その人がモデルになっています。そこもやっぱり放校になって東京専門学校かなんかに入って野球をやりまして、中等野球を一生懸命愛した人です。

これまたおもしろいのは、夏の高校野球大会というのは朝日新聞が主催していて朝日新聞のドル箱みたいになっていますが、当時の朝日新聞は野球というのは変だ、ベースボールというのはおかしい、盗むだとかアウトだとか変なことばっかり言っている、野球は亡国のスポーツだと言って反対したのです。それで『少年世界』だったか『冒険世界』だったかを舞台にして、『朝日新聞』と押川春浪が野球は是か非かということで大論争を繰り広げています。B5判雑誌の見開きを使って、堂々と論を展開しております。「それが今では逆になって朝日新聞の方が高校野球、高校野球と言っているのだから世の中おかしなものですね」と押川春浪のファンが言っていました。

押川春浪の『海底軍艦』は、ちょうど日本が日清、日露戦争で大陸に目を向けていった時代の思想的な背景を裏付けにして猛烈に読まれた作品です。SF的要素もありますし、大変よく読まれました。ですから六部まで続いていくわけです。武侠小説と銘打っています。今、中国にも武侠小説があるのですね。冒険とも違うし侍とも違うし、京劇の中にも一部出てきますが、男の浪漫みたいなものを歌っていく、男の生き方を描くみたいな痛快な小説です。この人には雑誌の編集の能力があって、自分でも『武侠世界』というのを創刊しまして、その中心になって活躍しています。

翻訳小説に話を移します。ジュール・ベルヌの原作で有名な『十五少年漂流記』ですが、最初の方で翻訳しています森田思軒(もりた しけん)の『十五少年漂流記』これは名訳ですよ。ぜひお読みになって下さい。訳のうまいというのは、原作よりおもしろいというと、原作を書いた人に怒られますけれど本当です。さっきお話したルブランと南洋一郎の関係になっちゃいます。森田思軒の『十五少年』は、本当に名訳です。ついでながら訳がいいものをもう一つ挙げますと、若松賎子(わかまつ しずこ)の『小公子』、これも名訳です。冒険小説ではもちろんありませんが。やっぱり訳がいいのっていいですね。最近は、作家でも文章がうまいひとはあまりいなくなりましたので、そういう言い方をすると非常に僭越ですけれども、もう少し文章を修行してから作家になればいいと思ったりします。

黒岩涙香(くろいわ るいこう)にも名訳がいくつかありますので、これもまたお読みになったらいいかと思います。黒岩涙香の『巌窟王』もおもしろいです。巌窟王は、人物の名前まで日本語に翻訳しています、これがまた何か得もいわれぬ情緒を生み出しています。『巌窟王』も冒険小説の一種でしょうね。ただ厳密な意味で分ければ、むしろあれは伝奇小説と言ったほうがよいかと思います。池田宣政の伝記ではなくて伝えるに奇妙の奇と書く伝奇小説です。デュマの作品は、『三銃士』にしても伝奇小説です。小説的なおもしろさというのは抜群で何を読んでもおもしろい。『三銃士』を「少年もの」で読みますとおもしろいところだけをうまく抜粋していますので、大変おもしろい小説になっています。完訳文庫本で3冊か4冊になりますが、完訳を読むと退屈な部分が一杯出てきます。「少年もの」では登場しない妖婦ミレディーという妖艶な美人が登場しまして、色じかけあったりでそれはそれでおもしろいですからこれもやっぱりお読みになった方がいいですね

後のことは、ざっといきます。吉川英治という作家がいます。これは今、『武蔵』が話題になっていますのでご存知だと思います。『宮本武蔵』という人物は、吉川英冶作品の『宮本武蔵』である程度有名になったのです。本当は、あの人の伝記と言うのはわかりません。大学の友人で熊本の島田美術館の館長がいます。宮本武蔵は最後、熊本藩におりましたので、宮本武蔵の絵とか書なんかを持っておりまして、自分で美術館を作りました。有名な佐々木小次郎との一騎打ちというか巌流島の決闘なんかも確かに船島(注:巌流島の正式名称)、巌流島というのはあるのですけれど、残されていた本によると戦い方は、全部違うものです。現在、戦いの仕方は、吉川英治の作品が決定稿みたいになっていますけれども、残っている決定的記録はありません。おつうなんていうのは、架空の人物です。『宮本武蔵』の吉川英治は国民的作家と言われていますけれど、ある人が吉川英治に「良い小説ってどんな小説ですか」と聞いたことがあります。すると吉川英治は、「おもしろくてためになる小説」と答えたそうです。おもしろくてためになるというとピーンと来るでしょう、『少年倶楽部』が「おもしろくてためになる」をモットーにしていたわけです。お亡くなりになりましたが名編集長と言われています加藤謙一さんのお子様の加藤丈夫さんが『「漫画少年」物語』という父の思い出を出版しました。私、ずっと前にお嬢さんとお目にかかってお話を伺ったことがあります。古い時代の編集長、名編集長という感じの人ですね。加藤謙一は少年小説に力を入れました。もちろんあそこには須藤憲三(すどう けんぞう)とか他にも有名な編集者が一杯いるのですけれど。展示を見ますと吉川英治は、懸賞小説で『江の島物語』というのが入選してそこからスタートするのです。代表作になった『神州天馬侠』というのは、ものすごく長い小説です。これもまた伝奇小説的な要素を含んでいる冒険・時代小説です。この人、戦後は、少年少女小説をほとんど書いていません。しかしこれを書いていた時期に、一回だけ病気で『少年倶楽部』を休載しました。その時に「少年倶楽部の愛読者へ」という手紙を病床から寄せまして、それが『少年倶楽部』に掲載されています。なんと原稿用紙11枚の手紙、11枚分ずっと「ごめんなさい、ごめんなさい、書きたかったけれどどうしても体がいうことが利かない、来月は頑張ります」といったことが書いてあるのです。11枚分手紙を書くなら小説を書いた方が早いと思いますが。『少年倶楽部』に対して吉川英治が、それだけ熱を入れていたということです。

この図録や展示をご覧になって、例えば吉川英治、大佛次郎、海野十三、江戸川乱歩、山中峯太郎とこの辺を見回してみます。今だと人気作家は少年小説なんて絶対に書かないです。一段、低く見ているわけです。そうではないと理論的には言いますけれど、「大人もの」の小説家から見るとこういうものは低いと思っているわけです。この時代もおそらくそういうことがあったと思うのですが、『少年倶楽部』には、それだけ力を入れて書いています。川端康成にも『乙女の港』という少女小説がありまして、この人は戦後、『ひまわり』に小説を書いています。尤もあれは代筆だったという説もありますので、ちょっと断定的なことは言えないです。戦後、川端康成の場合は、昔の少女小説を単行本にすることつまり重版することさえ断ったと言われていますので、一段低く見ている意識があったのではないかと思われます。(この図録中の作者のように)これだけ大人の小説で有名な人が力を入れて子どもの物を書いてくれれば、子どもの物もおもしろくなるはずですよね、才能があるわけですから。

江戸川乱歩にしても、あの人は几帳面な人で、『貼雑帖(はりまぜちょう)』と言われる自分の日誌みたいなものを作っていまして、その中で「大人もの」は書けなくなったので、「少年もの」を書いてやろうと言って、「少年もの」を書いたと自分のことを茶化して言っています。でも書くまでは、一生懸命調べたと言われています。最初の作品は『怪人二十面相』です。『怪人二十面相』は、「少年もの」だから決して殺人事件は起こさない、起こしてはいけないと考えていました。狙うのは宝物だけ、宝石とか仏像です。最初は、怪人ではなかったのです、『怪盗二十面相』というタイトルになる筈だったのです。しかし盗むと言う字は、少年物に対してよくないからタイトルを変えようということになって『怪人二十面相』にしたというエピソードがあります。

江戸川乱歩にも私は、晩年の頃にお目にかかっています。恐い人でした、あの人は。池袋に自宅がありましてその近くにミステリー文学資料館があります。土蔵の中で蝋燭を点して原稿を書くというエピソードが当時ありまして、その頃です。目が悪くなってサングラスをかけて、片方の目が全然見えなくなって、こうやって(手を伸ばしながら)「君々」と呼ばれて、学生の時ですから本当にびっくりしました。先程申し上げましたけれど、早稲田ミステリークラブの顧問だったのです。彼は早稲田の出身なので、クラブの総会だと言うと必ず出て来て、その後の一杯飲むところまで付き合って下さっていました。あの方の大好きな「三朝庵(さんちょうあん)」という蕎麦屋がありまして、今でもあります早稲田大学の通りを出てきて角に三つの朝と書く蕎麦屋です。そこの天麩羅蕎麦が大変お好きで、今でもO.B.があそこに行くと皆、「三朝庵の天麩羅蕎麦でも食べようか」と言って行くのですけれど、あそこの二階で総会の後、必ず飲み会があって、それで江戸川乱歩が「君、君」と声をかけます。あの人、色々な噂があります。美少年好みとかね、私は美少年ではないのでそっちの心配はなかったのですけれどね。何を言われるのかと思って本当に恐かったです。(客席から笑い)「君は、誰が好きかね、探偵小説かね推理小説かね」と言われ、「はぁ、何でも好きです」としか答えようがないのですよ、本当に。

江戸川乱歩も『怪人二十面相』から始まって、『少年探偵団』、『妖怪博士』と昭和10年くらいから毎年発表していくわけです。戦争が激しくなりますと探偵小説とは何事だ、盗んだとか盗まないとかそんな話があるかと言われて書けなくなりまして、『大金塊』という宝探しの話を書きますけれど、これももうだめだと言われて、その後は、小松龍之介というペンネームを使いまして、『智恵の一太郎』というシリーズを科学記事みたいなエッセーみたいなものを少年倶楽部に連載しています。これは単行本にはなったのですが、今は手に入らないかもしれません。珍しい作品です。江戸川乱歩も「少年もの」を書くときは、一生懸命書いたわけです。

海野十三は、『海野十三全集』が発売されていますので、これの最終号をご覧になれば大体つかめると思いますので、あんまりお話しません。この図録に出ています『浮かぶ飛行島』は傑作です。少年小説、殊に冒険小説の一番いいところといいますか、魅力の中の一つは、主人公に読者が自分を投影できるかどうかということなのです。主人公に共感できるかということ、共感できない主人公の場合は、読んだ後も印象が残らないし傑作として残っているものは少ないわけです。『浮かぶ飛行島』は、川上機関大尉というスーパーヒーローが出てくるわけです。この人に対する読者の投影は非常に楽で、傑作だろうと思います。簡単に話しますと『浮かぶ飛行島』というのは航空母艦を巨大にしまして、一つの島を航空母艦みたいに動かそうという話です。作ったのは、明らかには名前は出ていないのですけれど、相手はイギリスです。イギリスとアメリカとロシアのそれが、具体的な名前が出せないために、A国、B国、C国とかそういう書き方になっていますけれど、相手がわかっているために作品に緊張感が生まれるのです。現実、そういう時代に立っているわけです。ABCDラインと言う時代ですから。最近、アメリカと戦争した事も知らない人が多くなったと言いますけれど。日本はアメリカだけではなくて、ABCDラインというのはAがアメリカ、BがBritishのイギリス、CがChina、DがDuchのオランダと世界中を相手にして日本は戦ったわけです。同時代ですから世間の緊張感とも合いまして、名前が出てこなくてもあそこの国だというのは、読んでいる方がわかるわけです。そのため余計に主人公に対する投影がやりやすくなってくるということです。海野十三について一つだけ言っておきたいことは、この人は「SFの父」と言われていますけれど、それと一緒に日本の軍部の推進者というか行き方に対して肯定的な物を持っていて、ですから『浮かぶ飛行島』みたいな他の国を相手にして日本が戦うみたいな作品を作るわけです。ただ単にそれだけではないのは、この人のSF的な作品をみれば、おわかりだと思います。一番、私が偉いと思うのは昭和19年に講談社から『海軍』と『若桜』という雑誌が2冊創刊されます。当時、日本の国は紙が制限されていて、新しい雑誌を作るどころか雑誌の頁が薄くなりまして32頁くらいの雑誌になってしまいました。私が持っている昭和20年の終戦の年の8月に発売の7月号は表紙もないのです。いきなり本文から始まります。本文に『少年倶楽部』と印刷されて共紙で表紙なしの32頁で1冊の本になっているわけです。そういう時代に新しく雑誌を2冊も創刊したわけです。講談社の力もありますけれど。片方は『海軍』という名前どおり海軍省が後援です。『若桜』というのは陸軍省が後援です。昭和19年の4月頃に創刊されて、昭和20年の8月号まで、実際は途中で合併号が出ていますので、10冊か11冊位しか出ていないと思います。その中に海野十三が『宇宙戦隊』というSFを連載しているのです。他の部分は全部、海軍の戦争の話ばかりです。戦争の話で海軍が手柄を立てたとかなんとかそういう話ばっかりです。その中にただ一つ、純粋なSFです。他の星から攻めてくるという話です。ああいう事を書いたのだから大変なことだと思いますね。海野十三『敗戦日記』の中で日本が負けたのがショックで自殺しようとまでしたと書いていました。真面目な人なのです。この小説は、有難いことには最後の号よりも前に完結しているのです。他の小説は、戦争が負けた途端に連載が中断されています。これは中断されずに完結しています。

そういう例がもう一つありまして、大佛次郎が『少年倶楽部』に『楠木正成』という小説を連載していました。楠木正成というのは天皇制を盛り立てていった派で南北朝時代の中心ですから、当然戦後GHQの検閲で注意されると連載をやめなければいけないのです。それがこの作品は暫く続くのです。検閲に持っていっても通ったのです。誰が検閲した分かわかりませんけれど、中断しないで続いていったということは、大佛次郎の皇国観というのは、単純な帝国主義ではなかったとということでしょうか。

次は、もっと帝国主義の山中峯太郎です。これは先程も『万国の王城』が童謡になってびっくりしたという話をしました。この人の経歴がすごいです。陸軍軍医のところに養子になって、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学とエリートコースを歩いています。本人の自伝によりますと陸軍士官学校の時に、成績1位の人は、天皇が卒業式に列席されてその御前で話をするのです。それをしたと言われています。だから大変な秀才だったのでしょう。

我々の世代になるとあんまりピンと来ないのですけれど、当時は席次一番というのは非常に名誉だったらしくて、私が現在付き合っている方でもう80に近い方で海軍兵学校を出た人がいます。この人も非常に一番にこだわりますね。俺は一番だった、俺は一番だったと自慢するものですから、癪に障ってあの海軍兵学校の記録というのは、ちゃんと残っていますので、調べるとその人が一番だったかどうかすぐにわかるのです。いや、「その時の一番は、後で弁護士になった人ですよ」と言うと、「えっお前どうやって調べやがった」と言っていました。

陸軍大学在学中に中国で革命が起こっているので、同級生だった中国からの留学生と一緒に中国での革命に参加しています。向こうからペンネームをいくつか使って『朝日』とか『読売』とかに記事を送って掲載されています。帰ってきてからは、帰ってと言っても戦争が終わってではなくて、革命が失敗して帰ってきてからは、中国人として亡命して日本に帰ってくるのです。非常に不思議な人です。日本人なのに日本人として帰ってくるのではなくて、中国人として亡命者として帰ってきまして、その後は、別のペンネームを使いまして、普通の小説を書きまして結構ベストセラーになったりしています。文才があったのでしょう。この人の代表作は、『敵中横断三百里』です。

冒険小説の一つのジャンルに、現実にあった出来事をその事件に遭遇した人ではなくてその人の話を聞いて書きましたという形をとるものがあります。『吼える密林』がそうです。小説ではなくて実話を物語にしたのですというふうに言うものが多いわけです。実際にあったことというところに、冒険小説の魅力が出てくるわけです。この『敵中横断三百里』も豊吉軍曹という人が出てきます。軍曹の話をたまたま少年倶楽部の編集部が聞きつけて山中峯太郎に紹介して、その話を小説にしたというふうに言われています。『敵中横断三百里』のもう一つの魅力は、挿絵がいいのです。樺島勝一の挿絵です。ペン画の樺島、本当にもううまいです。当時の『少年倶楽部』の魅力の一つは、挿絵と小説がうまく噛み合っているところです。南洋一郎の場合も鈴木御水(すずき ぎょすい)の原画が展示されています。大変、緻密にかかれていて、良い絵が多いです。

こんな本があります。『密林(ジャングル)の死闘』和田民治(わだ たみじ)という人の経験談です。ジャングルでの冒険を戦後になって書いたもので、南洋一郎の推薦文が入っています。「私は、親友の和田くんがこんなに良いものを書いたことを心から喜んでいるのである」なんて推薦を書いています。これは冒険談というよりジャワを舞台にしたジャワの人たちとの交流を書いた物語です。小説とも違うし多少、脚色があると思いますので全くの実話だとは思わないですが、ワニを撃ったり、豹を撃ったり、大蛇に追いかけられたりという話が出てきます。

山中峯太郎の場合は、自分自身がそれを体験しているわけで、革命戦争のシーンをいくつか冒険小説にして『少年倶楽部』に掲載しております。その後、この人の場合は『アジアの曙』、『大東の鉄人』、本郷義昭を主人公にした冒険小説、スパイ小説の一種、軍事探偵の一種を書いています。だいたいスパイものというのは、007もそうですけど、或いはジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』とか、外国のスパイ小説の方が日本のものよりおもしろいようです。さっき申し上げましたけれど、この本郷義昭は、日本人であって陸軍の軍人です。山中峯太郎は大陸しか知らないわけですから、大陸を舞台にしたものをずっと書いたわけです。本郷義昭は、スーパーマンです。誰でしたか、有名な科学者だったと思いますけれど、「本郷義昭に憧れていた」とエッセーに書いていた人がいました。本郷義昭は、実に格好いい人です。本当にこういう生活を送ったら普通の人は馬鹿に見えるかもしれないけれど、まあ冒険小説の醍醐味の一つだと思います。

江戸川乱歩の話を先程、中断してしまいましたけれど戦後、『怪人二十面相シリーズ』を復活させて『少年』という雑誌で『青銅の魔人』という小説、これが戦後の江戸川乱歩の少年小説の第1作です。相変わらず明智小五郎と二十面相が出てくる話です。だんだん二十面相も四十面相になったり、宇宙人になったりどんどん発展するに従って、濃密さが薄くなってきて、これも戸川さんという研究家が発表しているからいいのだろうと思いますが、代筆というか江戸川乱歩の名前で他の人の書いた作品がいくつかあります。書いた人の名前もわかっています。書いた人に何遍かお目にかかって、よく知っています。

江戸川乱歩は、昭和7年に失踪して、一年くらい行方不明になります。どこで何をしていたのかわからないのです。その間の事を書いた小説が出ています。ちょうど江戸川乱歩の『青銅の魔人』を連載している頃、『鉄腕アトム』が連載を開始します。当時の少年雑誌について説明します。戦前は少年雑誌を挙げろといえば、『少年倶楽部』と誰もがそう言います。語弊があるので、注釈を入れますと、湯川秀樹という有名な学者がいます。あの人は『少年倶楽部』は利口すぎておもしろくない、『譚海(たんかい)』の方がおもしろかった。両親が止めるのをそっと押入れの中で読んだとそういう書き方をしています。『譚海』の方が当時は、もっと俗っぽいというか大衆向けでした。必ずしも『少年倶楽部』が一番と言ってしまってはいけないかもしれません。他にも『日本少年』というのもありました。でも一応、定説に従えば、戦前は『少年倶楽部』、戦後の一時期は『少年』、昭和の後期は『少年ジャンプ』に代表されると言われております。『少年ジャンプ』の話をすると長くなるのでやめます。

蘭郁二郎、平田晋策、この辺はおもしろいものがたくさんあるのですけれども、名前をあげるだけで説明しなくてもよいと思います。野村故堂だけ触れます。野村故堂は、あらえびすという名前で音楽評論も書いておりましたので、この人は、編集者としても非常に有能で確か報知新聞社の優秀な社員でした。自分で書く傍ら編集者としても大変有能だった筈です。『火星探検』とか『月世界探検』などのSFを書いております。これは珍しい作品で現物は、殆ど手に入りません。ちょっと時間の配分ができなくて申し訳ないですが、はやみね かおるや10分間読書運動の話もしたかったのですが。もう時間です。冒険小説の魅力というのは、知的好奇心を満足させるための知的活動であるわけです。ただ読書、活字を読むというのは、習慣と同時にかなり体力、エネルギーを必要としますので、はい、今日から読みましょうとはなかなかいかないです。それと今日挙げたような本は今、買おうとすると大変、高いです。幸いここに南洋一郎のコレクションがあるわけで、南洋一郎の作品に関しては、あのコレクションを読んでいただければと思います。知的好奇心を満足させて、楽しい読書をするのが一番長持ちする秘訣ではないかと思います。『少年倶楽部』の話をもう少しと、そして私自身の読書体験みたいなことも話をしたいと思っていたのですが、余談とついでながらが多すぎて、時間がなくなってしまい申し訳ありませんでした。これで終わらせて頂きます。ご清聴どうもありがとうございました。