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1871年、日本は清と対等な立場で「日清修好条規」(にっしんしゅうこうじょうき)を結んだが、清に朝貢していた朝鮮は明治政府との国交を拒んでいた。
『法令全書 明治6年』 内閣官報局大正元 (1912) 【CZ-4-1】
鎖国をしていた朝鮮に対し、西郷隆盛(さいごうたかもり)や板垣退助(いたがきたいすけ)らにより、武力による開国を主張する「征韓論」(せいかんろん)が高まる。
永嶋孟斎『西海騒揺起源征韓論之図』 五月女勝五郎明治10(1877) 【寄別7-5-1-6】
岩倉使節団(いわくらしせつだん)として欧米を視察していた大久保利通(おおくぼとしみち)らは、帰国すると内政の優先を唱え、朝鮮への使節派遣は中止となる。1873年、西郷隆盛らは征韓論争に敗れて辞職した(明治六年の政変)。
楊洲斎周延『征韓論之図』 浦野浅右衛門明治10 (1877) 【寄別8-5-1-1】
新政府は、1875年に軍艦を朝鮮半島の江華島(こうかとう)に近づけた。その結果、朝鮮と戦闘となり、江華島事件が起きた。
芳年 『雲揚艦兵士朝鮮江華戦之図』万屋孫兵衛【本別9-28】
江華島事件をきっかけに、1876年、朝鮮を独立国と認めた条約「日朝修好条規」(にっちょうしゅうこうじょうき)を結び、朝鮮を開国させた。この内容は朝鮮にとって不平等なものだった 。
『法令全書 明治9年』内閣官報局 明治20-45 (1887-1912) 【CZ-4-1】