東叡山寛永寺
歴史
東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)は、1625年(寛永2年)、徳川家と国家の安泰を祈る祈祷寺として、
大僧正[?]
・天海によって創建されました。
天台宗の総本山である比叡山延暦寺をモデルとしていて、延暦寺が明治維新までの天皇の住まいであった京都御所の鬼門を守るため、京都御所の北東に位置しているのと同じように、寛永寺は江戸城の鬼門である北東に位置しています。
また、
山号[?]
「東叡山」には、東の比叡山という意味が込められており、
寺号[?]
「寛永寺」も延暦寺が寺の名前を788年(延暦7年)という創建時の元号からとっていることにならったものです。
寛永寺の敷地内には、清水観音堂や五重塔などさまざまな建造物が次々に建立され、国内最大級の寺院となっていきます。
8代将軍吉宗のころには、境内の面積が30万5000坪(不忍池6万坪を除く)にもなりました。
徳川家はもともと、先祖をまつる菩提寺を大本山増上寺(だいほんざんぞうじょうじ)と定めていました。しかし、3代将軍家光は天海を深く敬慕し、本人の遺言により寛永寺で葬儀を行ったことをきっかけに、寛永寺は次第に菩提寺としての役割も担うようにもなりました。
歴代将軍のうち6名が寛永寺に眠っています。このうち、厳有院霊廟(4代将軍家綱)と常憲院霊廟(5代将軍綱吉)は国の重要文化財になっています。
現在のみどころ
幕末の上野戦争によって、東京国立博物館の場所にあった
本坊[?]
や噴水の場所にあった本堂は焼失しましたが、現地に行ってみると、かつての大きさを想像することができるかもしれません。
本坊は表門だけが、東京国立博物館の南東に位置する東叡山輪王寺(とうえいざんりんのうじ)の境内に移築され、重要文化財に指定されています。門扉には、上野戦争で飛び交った弾丸の跡が、丸い穴として残っているのを見ることができます。
現在の寛永寺の本坊は、子院の一つだった大慈院の場所に再建されています。