彰義隊の墓

歴史
彰義隊(しょうぎたい)とは、戊辰戦争のはじまりとなった鳥羽・伏見の戦い(1968年(明治元年))に敗れ、東叡山寛永寺に謹慎となった15代将軍慶喜を守るために結成された部隊です。結成時の頭取は、
渋沢栄一[?]
のいとこにあたる渋沢成一郎です。
4月11日の江戸開城後、慶喜は水戸へ去りましたが、彰義隊は寛永寺に残り続けます。そこに新政府に不満を持つ各藩浪士など集まったことで、3000余人の勢力になりました。新政府との対立を避けたい勝海舟は、彰義隊の解散を促しましたが、彰義隊はこれを聞き入れませんでした。
新政府は、5月15日上野を包囲し、一斉に攻撃を始めました。これが、戊辰戦争の一つである上野戦争です。
アームストロング砲[?]
をはじめとする最新鋭の砲撃隊らを前に彰義隊はたった1日で壊滅し、寛永寺は全焼しました。
現在のみどころ
彰義隊の墓は、上野公園の西郷隆盛の銅像の後方にあります。
上野戦争後、上野の山には彰義隊の200体以上の死体が放置されていました。新政府は遺体の引き取りを認めず、見せしめのために放置したといわれています。南千住にある
円通寺[?]
の住職らがこれを見兼ね、戦死者を上野で火葬し、遺骨を円通寺に埋葬しました。円通寺には、彰義隊関係者、旧幕臣など戊辰戦争関係者の慰霊塔があり、寛永寺の正門であった黒門も移築されています。
1874年(明治7年)に彰義隊の生き残りたちが政府の許可を得て、資金難などに見舞われながらも、1881年(明治14年)に
山岡鉄舟[?]
筆による「戦死之墓」が建てられました。
また、「戦死之墓」の前に小さな墓石が一基あります。碑面には墓石を建てたとされる上野の護国院と寒松院の寺名を一字ずつとった「松国」とあります。
「戦死之墓」に「彰義隊」の文字がないこと、匿名の墓石などから当時における彰義隊の複雑な評価を感じられます。