史料の背景
嘉永(かえい)6(1853)年6月3日に4隻の艦隊を率いて浦賀沖に現れたペリーは、
フィルモア・アメリカ合衆国大統領の国書[注1]を提出し、日本の「開国」を求めました。
フィルモアの国書には、日本とアメリカの友好と通商(貿易)、アメリカ船への石炭と食料の供給、難破民の保護を求めることが書かれていました。
それまでの日本は、長崎の出島など限られた場所で、中国人やオランダ人のみの入国を認める「鎖国」の状態だったので、ペリーの開国の要求は幕府や日本の人びとを驚かせました。
「泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん)、たった四杯で夜も寝られず」
という狂歌は、高級なお茶のブランド「上喜撰」とペリーの乗った「蒸気船」を掛けたもので、黒船の来航で人びとが夜も眠れぬほどの騒ぎだったことが詠まれています。
ペリーは翌年の
嘉永7(1854)年1月16日、7隻の艦隊を率いて再び来航し、和親条約の締結を迫ります。結局、幕府は3月3日に横浜村で12条の日米和親条約(神奈川条約)を締結しました。
日米和親条約は、アメリカが望んだ自由貿易を規定する「通商条約」ではありませんでした。ペリーは、この時点で通商条約を押し付けると相当な抵抗が予想されると考え、通商条約は近い将来に必ず締結されるであろうと判断したのです。
注1: |
ペリーが持ってきたフィルモアの国書
英文を漢文に訳した「合衆国書翰和解(がっしゅうこくしょかんわげ)」の解説が電子展示会「史料にみる日本の近代」に掲載されています。 |
史料を読んでみよう
(読み下し:
史料にみる日本の近代)
第二条では、下田・箱館の2港を開いて、アメリカ船に燃料・食糧を供給することが書かれています。
第三条では、アメリカの難破船や乗組員を救助することが書かれています。
第九条では、今回の和親条約で日本政府が許さなかった内容(貿易など)を、今後別の国に許可した場合は、アメリカ人へも同様に許可する、ということが取り決められました。
これは、アメリカよりも有利な条約を日本と結んだ場合、その内容がアメリカにも適用されることを表しており、アメリカへの「最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)」といいます。
この最恵国待遇は、
安政5(1858)年に結ばれる日米修好通商条約へも受け継がれていきます。
出典:三条家文書(さんじょうけもんじょ)
国立国会図書館憲政資料室では、三条実万(さんじょうさねつむ)と実美(さねとみ)父子旧蔵の文書4,299点を所蔵しています。
実万・実美に宛てた約370名分の書簡(手紙)や、幕末から明治にかけての書類が含まれています。