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日米修好通商条約 日米修好通商条約 1

日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)には、日本との貿易が含まれていなかったので、アメリカは1856年に通商条約を結ぶため、総領事官としてハリスを来日させた。下田の玉泉寺がアメリカ領事館となった。

 

日米修好通商条約 日米修好通商条約 2

ハリスは、アメリカ大統領の国書を幕府に提出するため、江戸に行くことを何度も要求した。ついに幕府はそれを許し、1857年、ハリスは江戸城に登城し、将軍家定に謁見した。

 

日米修好通商条約 日米修好通商条約 3

下総佐倉藩主で老中の堀田正睦(ほったまさよし)は、通商条約を結ぶ許可を孝明天皇(こうめいてんのう)に求めるが、孝明天皇の許しは得られなかった。

 

日米修好通商条約 日米修好通商条約 4

堀田に代わり外交交渉を担うことになった大老の井伊直弼(いいなおすけ)は、孝明天皇の許可を得ないまま、1858年日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結した。

 

日米修好通商条約 日米修好通商条約 5

貿易が開始されると、国内の繊維産業は輸出による生糸の品不足により打撃を受けた。国内の流通機構は崩れ、米や醤油なども品不足となり、物価は高騰した。金の流出なども発生し、日本経済は混乱した。 

輸出入品目グラフ 石井孝『幕末貿易史の研究』日本評論社 1944 pp.179-180, 183-185から作成

輸出入品目グラフ

 

日米修好通商条約 日米修好通商条約 6

幕府はその後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を締結(安政の五か国条約)。

 
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