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日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)には、日本との貿易が含まれていなかったので、アメリカは1856年に通商条約を結ぶため、総領事官としてハリスを来日させた。下田の玉泉寺がアメリカ領事館となった。
タウンセント・ハリス手録 生駒粂蔵訳『維新秘史日米外交の真相』 金港堂書籍大正2 (1913) 【350-171】
ハリスは、アメリカ大統領の国書を幕府に提出するため、江戸に行くことを何度も要求した。ついに幕府はそれを許し、1857年、ハリスは江戸城に登城し、将軍家定に謁見した。
勝安芳『海舟全集』第1巻 改造社昭和4 (1929) 【574-25】
下総佐倉藩主で老中の堀田正睦(ほったまさよし)は、通商条約を結ぶ許可を孝明天皇(こうめいてんのう)に求めるが、孝明天皇の許しは得られなかった。
熊田葦城『日本史蹟大系』第15巻 平凡社昭和10 -11(1935-1936) 【a210-241】
堀田に代わり外交交渉を担うことになった大老の井伊直弼(いいなおすけ)は、孝明天皇の許可を得ないまま、1858年に日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結した。
『締盟各国条約彙纂』 外務省記録局明治22(1889) 【C8-Z-03】
貿易が開始されると、国内の繊維産業は輸出による生糸の品不足により打撃を受けた。国内の流通機構は崩れ、米や醤油なども品不足となり、物価は高騰した。金の流出なども発生し、日本経済は混乱した。
輸出入品目グラフ
幕府はその後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を締結(安政の五か国条約)。
『五ケ国条約書并税則』安政5成 同6刊(1858) 【808-34】