福沢 諭吉
(ふくざわ ゆきち)
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1835年1月10日~1901年2月3日 (天保5年12月12日~明治34年2月3日) |
画像出典:『近世名士写真. 其2.』近世名士写真頒布会 昭9至10 【427-53】 国立国会図書館デジタルコレクション 電子展示会「近代日本人の肖像」 |

長崎と大阪で蘭学を学ぶ
2歳のときに父が亡くなると中津に戻り、下駄作りなどの内職をして、貧しい家計を助けました。
14歳で塾に通い始め、19歳で長崎に出て蘭学と砲術を学び、その後、大阪の蘭学者で医師の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)で学ぶようになります。お金がなく、途中からは塾に住み込みで勉強して、塾長にもなりました。
オランダ語が通用しない!
その翌年、外国人の多い横浜を訪れたところ、外国人は英語ばかり使っていて、オランダ語が通用しないことを知りショックを受けます。
英語を教えてくれる人が近くにいなかったので、英語とオランダ語を対訳した辞書を基に独学で英語を学び始めます。
咸臨丸(かんりんまる)でアメリカへ
アメリカでは、身分に関係なく、能力次第で活躍できることに感動を覚えます。諭吉の自伝『福翁自伝』には、そのときのエピソードがいろいろ紹介されています。
例えば、サンフランシスコで、ホテルに敷き詰められていたじゅうたんを見て驚き、さらにアメリカ人がその上を靴で歩くことに驚きます。
また、コップの中の氷が3月や4月の暖かい時期にあることにも驚いています。日本人の中には氷をガリガリかむ者もいたそうです。
アメリカでは、英語の辞書(ウェブスター)を購入し、帰国後は単語集『(増訂)華英通語』を刊行します。塾の教育を英学に切り替えます。
その後も、幕府の使節として欧米を視察します。1866年、31歳のときには、海外で見てきたことを『西洋事情』という本にまとめました。約15万部も売れたといいます。
慶応義塾(けいおうぎじゅく)の設立
戊辰戦争(ぼしんせんそう)で上野が戦場になったときも、大砲の音を聞きながら、講義を続けました。

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福沢諭吉著 土橋俊一校訂・校注『福翁自伝』(講談社学術文庫)
講談社 2010 【HA153-J25】プロジェクト新・偉人伝 著作・編集『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝 29 (福沢諭吉)』
ポプラ社 2010 【Y3-N10-J62】