史料の背景
明治政府の憲法草案は、明治19(1886)年から、ドイツ人顧問のロエスレルらの助言を得て、
伊藤博文(いとうひろぶみ)を中心に井上毅(いのうえこわし)・伊東巳代治(いとうみよじ)・金子堅太郎(かねこけんたろう)らにより作成されました。
明治20(1887)年には、神奈川県金沢の旅館や神奈川県夏島にある伊藤の別荘など場所を変え、憲法草案の検討が重ねられました。夏島の別荘で作られた夏島草案を経て、明治21(1888)年からは、天皇を助けて憲法を作成する「枢密院(すうみついん)」という会議で、天皇臨席の下で審議されました。
写真の「浄写三月案」は、枢密院での審議が始まる前の明治21(1888)年3月に、伊藤がこれまでの検討を整えた草案です。
表紙には「博文」の署名があり、伊藤はこれを枢密院に持って行き、鉛筆で修正を書き入れたと言われています。
こうして出来上がった「大日本帝国憲法」は、
明治22(1889)年2月11日(紀元節の日)の皇居での発布式で、天皇が内閣総理大臣の黒田清隆(くろだきよたか)に授ける形で出されました。これは、帝国憲法が、天皇が定めて国民に与える「欽定憲法(きんていけんぽう)」という性格を持つためです。
史料を読んでみよう
(読み下し:
「日本国憲法の誕生」大日本帝国憲法)
第一条や第三条で、国家の主権が天皇にあることや、天皇の地位は神聖なもので、侵すことはできないことが強調されています。
第四条では天皇は、「元首」であり、「統治権の総覧」者であること、第十条では、天皇には官僚を任じたり辞めさせたりできる権利が記されています。さらに天皇は陸海軍を率いる統帥権(とうすいけん)を持つこと(第十一条)や、戦争を始めたり、講和したりする権利を持つこと(第十三条)の定めもあり、陸海軍は内閣からも独立して天皇に直属していました。このように天皇が国家を治める権利の全てを握ることが記されていました(天皇大権)。
第二十条では、兵役の義務が書かれています。「日本臣民」という言葉は、天皇に仕える民という意味です。
出典:伊藤博文関係文書
国立国会図書館憲政資料室では、伊藤博文旧蔵の書簡(手紙)や書類約6,000点を「伊藤博文関係文書(その1)」として所蔵しています。
伊藤に宛てた手紙の差出人は500名を超え、『伊藤博文関係文書』(塙書房)に翻刻が掲載されています。