本文へジャンプ下部メニューにジャンプ
自由民権運動が高まり、政府は1881年に「国会開設の勅諭」(こっかいかいせつのちょくゆ)を出し、10年後の1890年に国会を開くことを約束した。
『法令全書 明治14年』 内閣官報局明治20 (1912) 【CZ-4-1】
国会開設に向け憲法を制定することになった。イギリス憲法を手本としたい大隈重信(おおくましげのぶ)は伊藤博文(いとうひろぶみ)らと対立し、1881年に罷免された(明治十四年の政変)。
伊藤博文[筆]『大隈重信の上奏文(写)』明治14 (1881) 【伊藤博文関係文書(その1)書簡の部502】
伊藤博文は1882年にドイツ(プロイセン)憲法を中心とする憲法調査のためヨーロッパに派遣され、翌年に帰国する。
『立憲政体調査につき特派理事欧洲派遣の勅書』明治15 (1882) 【伊藤博文関係文書(その1)書類の部209】
政府・民間を問わず、様々な憲法草案が作成された。民間で作成されたものを私擬憲法(しぎけんぽう)といい、「五日市憲法」や植木枝盛(うえきえもり)による「東洋大日本国国憲案」などがある。
『東洋大日本国々憲案』明治14 (1881) 【牧野伸顕関係文書 書類の部 89】
1885年、政府は太政官制(だじょうかんせい)を廃止し、内閣制度を創設した。内閣総理大臣の職権を定めた「内閣職権」も制定され、初代内閣総理大臣には伊藤博文(いとうひろぶみ)が就任した。
内閣制度の表
伊藤博文(いとうひろぶみ)や井上毅(いのうえこわし)、ドイツ人ロエスレルなどにより憲法草案が作られ、枢密院で審議される。
『夏島草案』明治20 (1887) 【伊東巳代治関係文書書類の部4】
1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
楊洲周延『憲法式大祭鳳凰御輦之図』 横山良八明治22 (1889) 【寄別7-3-1-6】
憲法発布式の翌日、黒田清隆(くろだきよたか)首相は、政府の政策は政党の意向によって左右されてはならないという「超然主義(ちょうぜんしゅぎ)」を宣言した。
『憲法発布に際しての黒田首相演説』明治22 (1889) 【牧野伸顕関係文書 書類の部 84 】