将軍徳川家茂に降嫁
孝明天皇(こうめいてんのう)の妹で、5才のときに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約します。
しかし、幕府の公武合体(こうぶがったい)策により、
1862年、16才で同じ年の第14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と結婚することになり、京都を離れて江戸城大奥に入ります。
家茂と仲良く暮らし始めた翌年から、家茂はしばしば上洛する(天皇に会うため京都に行く)ことになり、家茂と離れて過ごすことが多くなりました。
病気の家茂が三度目の上洛をした際は、和宮は心配して何度もお参りをし、京都に手紙や贈り物をしますが、1866年、家茂は病死してしまいます。僅か20歳でした。
家茂の死後、和宮の下に、家茂からのお土産の西陣織が届きます。
徳川家の存続を願う
家茂の死後、和宮は出家して「静寛院(せいかんいん)」と名乗ります。
戊辰戦争(ぼしんせんそう)中には朝廷に手紙を送り、
天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)と共に、徳川家の存続を訴えました。江戸城開城後は、京都に戻りますが、再び東京で暮らすようになり、1877年、病気のため32歳の若さでその生涯を終えます。