新撰組の局長
武蔵国多摩郡(東京都調布市)の農家の三男に生まれ、少年のころから剣術を学びました。
その才能を見込まれ、近藤家の養子となり、26歳のとき道場「試衛館」(しえいかん)を継ぐことになりました。
試衛館には、
土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司(おきたそうじ)など後の新撰組のメンバーがいました。
1863年、29歳の時に、京都へ向かう将軍の警護隊に参加します。
後に京都守護職(きょうとしゅごしょく)松平容保(まつだいらかたもり)の下で新撰組を名のり、京都の治安維持のために、尊王攘夷(そんのうじょうい)派の志士を取り締まるようになります。
1864年には京都河原町の旅館池田屋で尊王攘夷派の志士を襲撃し、手柄を挙げます。
近藤は局長として、多いときには150人以上いた新撰組をまとめました。
しかし、
1868年、34歳のとき、
戊辰戦争(ぼしんせんそう)で敗走し、下総国(しもうさのくに)で捕えられ、処刑されます。