史料の背景
明治新政府は、
戊辰戦争(ぼしんせんそう)が進む中で、まず、
慶応4(1868)年1月には、諸外国に対して、「王政復古」と「天皇の外交主権掌握」を告げました。そして、国内に向けて3月14日に出されたのが、天皇を中心とする新しい政治の基本を示す「五箇条の誓文」です。
誓文の最初の案は、慶応4(1868)年1月に福井藩の由利公正(ゆりきみまさ)が考えた「
議事之体大意」
[注1]というもので、公家や大名による会議の原則を述べたものでした。
次に、土佐藩の福岡孝弟(ふくおかたかちか)の修正案が出され、「列侯会議」という語が追加されました。これは、公家や大名が集まって会議を開き、国政の方針を決めるという構想でした。
最後に、
木戸孝允(きどたかよし)が中心となり、大名中心でなく、天皇中心であることを示すべく、第一条の冒頭から、「列侯会議」の文言を削り「広く会議を興し」と修正しました。
誓文は、明治天皇が京都御所の紫宸殿(ししんでん)で、公家や大名を率いて神に誓うという形で出されました。このような儀式は、国家の中心に天皇を置くことを示すものでした。
注1: |
由利公正「議事之体大意」
福井県立図書館のウェブサイトで画像が公開されています。
http://www.library.pref.fukui.jp/info/kyoudo/gokajyono_goseimon.html
【貴重書画像データベース】
http://www.library.pref.fukui.jp/webmuseum/collect/large_image.do?data_id=3990&media_data_id=58
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史料を読んでみよう
第一条では、政治を行う際に多くの意見を求めること、政治に関して、全てのことを会議で話し合って決めていくことが書かれています。
第二条では、身分の上下に関わらず、心を一つにして国家を治め整えていくことが書かれています。
第三条では、役人・武士・庶民まで身分の違いを超えて、それぞれの志を実現できるような社会を目指すことが書かれています。
第四条では、古くからの悪い習慣を無くして、世界共通の正しい道理(国際法)に従うことが書かれています。
第五条では、欧米の進んだ文明(智識)を求めて、国家を発展させることが書かれています。