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戊辰戦争(ぼしんせんそう)で勝利した新政府は、1868年に五箇条の誓文(ごかじょうのせいもん)を出した。
『太政官日誌 慶応4年 第1?2巻』 太政官明治元-9 (1868-1876) 【CZ-2-01a】
五箇条の誓文(ごかじょうのせいもん)が出された翌日、人民の心得を示した五種の高札「五榜の掲示(ごぼうのけいじ)」が出される。キリスト教の禁止なども定められている。
『法令全書 慶応3年』 内閣官報局明治20-大正元 (1887-1912) 【CZ-4-1】
明治維新の大きな目的は、明治新政府による中央集権国家の建設であった。1868年、江戸を東京と改称し、年号を明治に改め、翌1869年東京を新しい首都とし、天皇も政府も移った。
岡部精一『東京奠都の真相』 仁友社大正6 (1917) 【GB431-184】
新政府が全国の土地と人々を直接治める中央集権国家を作るため、1869年、木戸孝允(きどたかよし)や大久保利通(おおくぼとしみち)らが中心となり、土地や人民を朝廷に返上させる「版籍奉還」(はんせきほうかん)を実施した。
沼田頼輔編『山内豊範国事功労事蹟』昭和3 (1928) 【183-583】
1871年、藩を廃止して県を置く「廃藩置県」(はいはんちけん)を実施。中央から府知事や県令を派遣する仕組みを作った。
廃藩置県の図
1869年7月には、中央集権だった日本古代の政治組織を復活させた「太政官制」を新政府の体制とした。木戸孝允(きどたかよし)、西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)らは参議に任命された。
太政官制の図
江戸時代の厳しい身分制度を廃止し、公家・大名は華族、武士は士族、農民・町人などは平民と呼ばれるようになった(四民平等(しみんびょうどう))。
西村兼文『開化の本 : 初編』 杉本甚助明治7 (1874) 【W32-11】
1871年に「えた・ひにん」の呼び名を廃止する「解放令」が出された。ただし、すぐに差別が無くなったわけではなかった。
明治初めの身分別人口の割合