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人物編
> 木戸 孝允(きど たかよし)/桂 小五郎(かつら こごろう)
1833年8月11日~1877年5月26日
(天保4年6月26日~明治10年5月26日)
画像出典:『近世名士写真. 其1.』近世名士写真頒布会
昭9至10 【427-53】
国立国会図書館デジタルコレクション
電子展示会「近代日本人の肖像」
吉田松陰(よしだしょういん)に学ぶ
長州藩の藩医の子として生まれ、8歳で桂家に養子に入ります。
16歳のとき3歳年上の
吉田松陰(よしだしょういん)
に学び、1852年、19才で剣術修行のため江戸に留学します。
江戸留学中は剣術のほか、洋式砲術やオランダ語を学びます。剣術では入門1年で塾頭となる上達ぶりでした。
→ 人物編
:
吉田松陰
黒船を見る
江戸留学中に、ペリーの率いる黒船を見た衝撃から、その後は、長州藩の軍制を西洋式に変えたり、
高杉晋作(たかすぎしんさく)
や
伊藤博文(いとうひろぶみ)
のイギリス留学を助けるなど、倒幕(とうばく)に向けて長州藩のリーダーとして活躍します。
長州藩の過激な攘夷派(じょういは)の志士をなだめながら、藩の政治の調整役として重要な役割を果たします。
→ 人物編
:
高杉晋作
、
伊藤博文
→ テーマ解説
:
ペリー来航
倒幕と薩長同盟(さっちょうどうめい)
1864年
(31歳のとき)の蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)の後、長州藩が京都を追われた際には、但馬出石(たじまいずし)に身を隠すことになります。
1864年
の四国連合艦隊下関砲撃事件(しこくれんごうかんたいしものせきほうげきじけん)(下関事件)で長州が欧米諸国に敗れると、外国勢力を追放するのは難しいと考え、攘夷を諦めて、倒幕運動を進めます。
以後、長州藩の代表として、
1866年
、33歳のときに
薩長同盟(さっちょうどうめい)
を結ぶなど、倒幕に尽力します。
→ テーマ解説
:
尊王攘夷運動
、
薩長同盟
、
大政奉還
明治新政府で活躍
1868年
、35歳のときに
五箇条の誓文(ごかじょうのせいもん)
を書き上げます。
また、
1871年
からは
岩倉使節団(いわくらしせつだん)
の副使として欧米を視察します。
欧米視察では、日本と欧米の国力の差を見せ付けられ、当初の目的の条約改正がかなわないことを知りました。
帰国後は、
征韓論(せいかんろん)
に対して、国内の政策の近代化を優先するよう主張していきます。
→ 史料編
:
五箇条の誓文
→ テーマ解説
:
明治維新
、
岩倉使節団
、
征韓論
もっと知りたい!
:児童書
:小説
古川清行『読む日本の歴史 : 日本をつくった人びとと文化遺産7 』
あすなろ書房 2010 【Y2-N10-J110】 pp.132-141 「五箇条の誓文」、pp.156-159 「欧米への旅」
五箇条の誓文や岩倉使節団などの説明のなかで、木戸のエピソードが紹介されています。
プロジェクト新・偉人伝 著作・編集『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝 14(坂本竜馬)』
ポプラ社 2009 【Y3-N09-J69】 p.56 「ズームイン!桂小五郎」
大江志乃夫『木戸孝允』(中公新書)
中央公論社 1968 【289.1-Ki131Ok】