埋もれ木の生き方
彦根藩主井伊直中(いいなおなか)の14番目の男子として、彦根城内で生まれました。多くの兄弟がいたので、家督(かとく)を継ぐことはないと考え、16歳のときに父を亡くしてからは「埋木舎(うもれぎのや)」と自ら名付けた屋敷に住みました。
この屋敷の名には、世の中の出世・競争とは離れて、学問・文武の芸に励もうという気持ちが込められています。
藩主から大老へ
兄たちが亡くなったため、35歳で彦根藩主となり、1858年、43歳のときに、幕府の大老に就任します。
直弼が大老になったのは、アメリカが日本との貿易を望み、ハリスを下田に滞在させている時期でした。
直弼は、天皇の勅許を得ないまま
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結し、将軍家定の跡継ぎを紀州藩の徳川慶福(とくがわよしとみ)と定め、また、それらに反対した人々を弾圧しました(安政の大獄(あんせいのたいごく))。このため
1860年3月24日、江戸城に向かう途中、桜田門のそばで暗殺されました(桜田門外の変(さくらだもんがいのへん))。
茶道の「一期一会」
直弼は、毎日江戸城で老中たちの話合いに加わりました。自分の意見をはっきり言う前向きな態度は、周囲を驚かせたといいます(『井伊直弼ってどんな人?』)。また、一旦物事を始めたら、途中でやめたりせず、納得するまでやり遂げる性格だったそうです。
特に、お茶については熱心に勉強し、『茶湯一会集』という本を著しています。直弼の考える茶の湯は「一期一会」という言葉に表されています。これは、一度の茶会での出会いは一生に一度だけのものだから、心を尽くして出会いのときを大切にしよう、という意味です。