吉田 松陰
(よしだ しょういん)
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1830年9月20日~1859年11月21日 (文政13年8月4日~安政6年10月27日) |
画像出典:杉原夷山『吉田松陰 : 偉人言行録』三芳屋[ほか] 明43 【特61-813】 国立国会図書館デジタルコレクション 電子展示会「近代日本人の肖像」 |

藩主も驚く秀才
9歳のときには、長州藩の藩校明倫館(めいりんかん)で教師の見習いとなるなど、その秀才ぶりは藩主毛利敬親(もうりたかちか)をも驚かせます。
15歳のころ、アヘン戦争で清国がイギリスに負けたことなどを知り、日本も危ないのでは、と危機感を募らせます。
日本の状況を確かめるべく、20歳の頃には長崎や平戸を旅します。
長崎では停泊中のオランダ船に乗り込み、西洋文明の質の高さを知ることになります。
その後も、水戸や会津、佐渡を経てロシア船が出没した津軽半島を巡り、『東北遊日記』などを書きました。
黒船で密航を計画
しかし、この密航の申し出はペリーに受け入れられず、陸に戻った松陰らは牢に入ることになります。
松陰の申し出はペリーの『日本遠征記』に書き留められました。
やがてイギリスの小説家で『宝島』の作者R・L・スティヴンスン(Stevenson)が「ヨシダ・トラジロウ」という短い伝記を書きました。
松下村塾
翌年免獄となり実家杉家に幽閉(ゆうへい)の身となりました。その間松下村塾(しょうかそんじゅく)を開き、高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材を育成しました。
松陰は諸国を遍歴して見たことや、歴史書などを読んで得た知識などから、50冊以上の著作を書き残しました。1859年、29歳のときに安政の大獄(あんせいのたいごく) 井伊直弼(いいなおすけ)が行った、
日米修好通商条約の締結や将軍家定の
後継者をめぐる反幕府運動への弾圧のこと。 により、江戸で処刑されました。処刑前日に書いたのが『留魂録(りゅうこんろく)』です。
松陰に教えを受けた人びとは、その後の明治維新や日本の近代化で活躍しました。
注1: | 井伊直弼(いいなおすけ)が行った、 日米修好通商条約の締結や将軍家定の 後継者をめぐる反幕府運動への弾圧のこと。 |

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プロジェクト新・偉人伝 著作・編集『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝 21 (吉田松陰)』
ポプラ社 2009 【Y3-N09-J174】