藩主も驚く秀才
長州藩の下級武士の家に生まれました。幼くして叔父の養子となりますが、叔父が病死してしまい、僅か5歳で吉田家の当主となります。
9歳のときには、長州藩の藩校明倫館(めいりんかん)で教師の見習いとなるなど、その秀才ぶりは藩主毛利敬親(もうりたかちか)をも驚かせます。
15歳のころ、アヘン戦争で清国がイギリスに負けたことなどを知り、日本も危ないのでは、と危機感を募らせます。
日本の状況を確かめるべく、20歳の頃には長崎や平戸を旅します。
長崎では停泊中のオランダ船に乗り込み、西洋文明の質の高さを知ることになります。
その後も、水戸や会津、佐渡を経てロシア船が出没した津軽半島を巡り、『東北遊日記』などを書きました。
黒船で密航を計画
1854年、24歳のとき、ペリー艦隊が2度目に日本に来たのを機会に、進んだ海外の文化に触れようと、下田に停泊中の軍艦に小舟で乗りつけ、海外に連れて行ってほしいと頼みます。
しかし、この密航の申し出はペリーに受け入れられず、陸に戻った松陰らは牢に入ることになります。
松陰の申し出はペリーの『日本遠征記』に書き留められました。
やがてイギリスの小説家で『宝島』の作者R・L・スティヴンスン(Stevenson)が「ヨシダ・トラジロウ」という短い伝記を書きました。
松下村塾
江戸の牢屋から長州藩の「野山獄(のやまごく)」という牢屋に移された松陰は、1年間に約600冊もの本を読み、また黒船への密航を振り返った『幽囚録』も書きます。
翌年免獄となり実家杉家に幽閉(ゆうへい)の身となりました。その間松下村塾(しょうかそんじゅく)を開き、
高杉晋作(たかすぎしんさく)、
伊藤博文(いとうひろぶみ)ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材を育成しました。
松陰は諸国を遍歴して見たことや、歴史書などを読んで得た知識などから、50冊以上の著作を書き残しました。1859年、29歳のときに安政の大獄(あんせいのたいごく)
[注1] により、江戸で処刑されました。処刑前日に書いたのが『留魂録(りゅうこんろく)』です。
松陰に教えを受けた人びとは、その後の明治維新や日本の近代化で活躍しました。
注1: |
井伊直弼(いいなおすけ)が行った、 日米修好通商条約の締結や将軍家定の 後継者をめぐる反幕府運動への弾圧のこと。 |