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征韓論(せいかんろん)に敗れた板垣退助(いたがきたいすけ)は、国民が政治に参加できるよう、1874年、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、江藤新平(えとうしんぺい)らと政治結社「愛国公党」(あいこくこうとう)作り、その後、民主的な議会の開設を望む「民撰議院設立建白書」(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を提出した。
『民撰議院設立建白草稿 (三種)』明治7 (1874) 【古沢滋関係文書13】
板垣退助(いたがきたいすけ)らの土佐への帰郷で愛国公党は解党する。1874年には板垣が土佐で立志社(りっししゃ)を結成し、1875年の大阪での日本初の全国規模の愛国社(あいこくしゃ)結成に発展する。
『立志社建白写』(三条家文書42−2)明治10 (1877)
高まる自由民権運動に対し、政府は1875年に新聞紙条例を、1880年に集会条例をそれぞれ出して、言論の弾圧を強めていった。
家永三郎[ほか]『新しい日本の歴史』 毎日新聞社昭和25 (1950) 【児21-I-2】
土佐の中江兆民(なかえちょうみん)は、フランスの思想家ルソーの書を翻訳した『民約訳解(みんやくやっかい)』を出版し、自由民権運動を理論的に指導した。
戎雅屈・婁騒 (ジャン・ジャック・ルーソー)著 中江兆民訳解 『民約訳解 第1巻』 仏学塾出版局明治15(1882) 【25-260】
1880年の愛国社の大会では、国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)が結成され、国会の開設を請願する署名が政府に提出されたが、認められなかった。
河野広中[他]『国会ヲ開設スル允可ヲ上願スル書』明治13 (1880) 【河野広中関係文書書類の部168】
多くの政治結社は各地で演説会を行った。女性の権利を主張する岸田俊子(きしだとしこ)(のち中島湘煙(なかじましょうえん))などもいた。
相馬黒光『明治初期の三女性 : 中島湘煙・若松賤子・清水紫琴』 厚生閣昭和15(1940) 【GK13-500】
憲法の制定や国会の開設を目指して二つの政党が結成された。1881年結成の板垣退助(いたがきたいすけ)を党首とする自由党と、1882年結成の大隈重信(おおくましげのぶ)を党首とする立憲改進党(りっけんかいしんとう)である。
『自由党史』 中島七右衛門明治23 (1890) 【特48-545】
川上音二郎(かわかみおとじろう)が自由民権思想を広めるため歌い出した「オッペケペ節」が流行した。
井上勝五郎編『面白をかし』明治24 (1891) 【特64-916】