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> 板垣 退助(いたがき たいすけ)
1837年5月21日~1919年7月16日
(天保8年4月17日~大正8年7月16日)
画像出典:画譜憲政五十年史刊行会編『憲政五十年史 : 画譜』補再版
大日本皇道奉賛会 昭和17 【430-121イ】
国立国会図書館デジタルコレクション
電子展示会「近代日本人の肖像」
倒幕派の土佐藩士
土佐藩の武士の長男として生まれました。子どもの頃は、あまり勉強が好きではなく、幼なじみの後藤象二郎(ごとうしょうじろう)とけんかばかりするわんぱく者でした。
大政奉還(たいせいほうかん)
を掲げる土佐藩の考えよりも、武力で幕府を倒す倒幕派の考えに同調し、
西郷隆盛(さいごうたかもり)
らと共に行動します。
→ 人物編
:
西郷隆盛
会津攻略で学ぶ
1868年
、31歳のときに
戊辰戦争(ぼしんせんそう)
が始まると、土佐藩兵を率いて転戦しました。宇都宮城を攻める際には、日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)が戦場になることを避けるよう、旧幕府軍に働きかけました。会津戦争では、会津藩を降伏させ、鶴ヶ城(つるがじょう)(会津若松城(あいづわかまつじょう))は開城しました。このとき、武士が戦っている一方で、多くの民衆が先を争って逃げ出す様子を見て、身分の差別なく、心を一つに国民みんなが参加できる政治を考えるようになります。
→ テーマ解説
:
戊辰戦争
自由民権運動
1869年、明治新政府の参与となり要職を歴任しますが、
征韓論(せいかんろん)
が反対されたことに不満を持ち、1873年、36歳のとき、新政府を去り、高知に戻ります。
その後は、国会の開設を求め、
自由民権運動
を活発に展開します。1882年、45歳のときに、岐阜で演説中に刺客に襲われますが、そのときに「吾死するとも自由は死せん」と発言しました。これが後に「板垣死すとも自由は死せず」と言ったと伝わっています。
→ テーマ解説
:
自由民権運動
、
征韓論
もっと知りたい!
:児童書
:小説
鎌田和宏監修『教科書に出てくる歴史人物・文化遺産 : ビジュアル大図解 7 (明治・大正・昭和時代) 』
学研教育出版 2012 【Y2-N12-J56】 pp.16-17 「板垣退助」
西本鶏介文 青山邦彦絵 安田常雄監修『板垣退助 : 国民参加の政治をめざして』
ミネルヴァ書房 2012 【Y3-N12-J92】