薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)の側近
薩摩藩の下級武士の長男に生まれました。3歳年下の幼なじみに
大久保利通(おおくぼとしみち)がいます。
13歳のとき、仲間のけんかを止めに入り、そのときの傷が元で刀を自由に振れなくなってしまいました。武道を諦め、学問に励み、薩摩の「郷中
[注1] (ごうちゅう)」仲間のリーダーとして、信頼を得るようになりました。
薩摩藩の役人として働きながら提出した藩政に関わる意見書が認められ、1854年、27歳で藩主島津斉彬の江戸行きに従うことができました。その後も斉彬の側近として活躍します。斉彬が急死した際にはショックを受けました。
注1: |
下級武士を対象とした薩摩の独特の教育制度のこと。 |
島での日々
31歳の時、安政の大獄(あんせいのたいごく)
[注2] で幕府に追われた京都清水寺の僧侶月照(げっしょう)と海に身を投げますが、西郷だけが奇跡的に助かります。その後、奄美大島(あまみおおしま)に身を潜(ひそ)めます。
その4年後、島津久光(しまづひさみつ)の下で力をつけていた大久保利通のとりなしで、薩摩に戻ることができますが、久光の怒りを買い、再び沖永良部島(おきのえらぶじま)に流されてしまいます。
沖永良部島では雨が吹きつけるほど粗末な牢獄に閉じ込められました。
注2: |
井伊直弼(いいなおすけ)が行った、 日米修好通商条約の締結や将軍家定の後継者をめぐる反幕府運動への弾圧のこと。 |
注3: |
薩摩藩の島津久光の行列を横切った 騎乗のイギリス人を藩士が殺傷した事件。 |
大久保利通との別れ
戊辰戦争後、明治新政府への参加を断り続けていましたが、大久保利通らの説得でようやく参加を決めます。
しかし、朝鮮を開国させる使者として、朝鮮行きが決まりかけていたところに、
岩倉使節団(いわくらしせつだん)として欧米を視察し帰国した大久保利通らが内政優先を唱え、決定を覆します。
この明治六年の政変で、西郷は明治政府を去り、故郷鹿児島に帰ります。
後に薩摩の私学校の不平士族に促されて挙兵し、新政府軍と戦いますが、政府軍に敗北し、最期を迎えます(西南戦争)。
上野の銅像
没後21年を経た1898年、上野公園に銅像が建てられました。
銅像の原画は1878年にイタリア人銅版画家キヨソーネ(キオソーネ)によって描かれたものですが、西郷の写真でなく、弟の従道(つぐみち)、従弟の大山巌(おおやまいわお)の写真を基に描いたものです。なぜなら、西郷は写真嫌いで、生前の西郷の写真は残っていなかったからです。
西郷(隆盛)の銅像の作者は高村光雲(たかむらこううん)、傍らの犬の作者は後藤貞行(ごとうさだゆき)です。
1898年の除幕式の日、妻のイト(糸子)は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」と言ったそうです。