西郷 隆盛
(さいごう たかもり)
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1828年1月23日~1877年9月24日 (文政10年12月7日~明治10年9月24日) |
画像出典:『近世名士写真. 其1.』近世名士写真頒布会 昭9至10 【427-53】 国立国会図書館デジタルコレクション 電子展示会「近代日本人の肖像」 |

薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)の側近
13歳のとき、仲間のけんかを止めに入り、そのときの傷が元で刀を自由に振れなくなってしまいました。武道を諦め、学問に励み、薩摩の「郷中 下級武士を対象とした薩摩の独特の教育制度のこと。 (ごうちゅう)」仲間のリーダーとして、信頼を得るようになりました。
薩摩藩の役人として働きながら提出した藩政に関わる意見書が認められ、1854年、27歳で藩主島津斉彬の江戸行きに従うことができました。その後も斉彬の側近として活躍します。斉彬が急死した際にはショックを受けました。
注1: | 下級武士を対象とした薩摩の独特の教育制度のこと。 |
島での日々
日米修好通商条約の締結や将軍家定の後継者をめぐる反幕府運動への弾圧のこと。 で幕府に追われた京都清水寺の僧侶月照(げっしょう)と海に身を投げますが、西郷だけが奇跡的に助かります。その後、奄美大島(あまみおおしま)に身を潜(ひそ)めます。
その4年後、島津久光(しまづひさみつ)の下で力をつけていた大久保利通のとりなしで、薩摩に戻ることができますが、久光の怒りを買い、再び沖永良部島(おきのえらぶじま)に流されてしまいます。
沖永良部島では雨が吹きつけるほど粗末な牢獄に閉じ込められました。
注2: | 井伊直弼(いいなおすけ)が行った、 日米修好通商条約の締結や将軍家定の後継者をめぐる反幕府運動への弾圧のこと。 |
薩摩藩のリーダー
騎乗のイギリス人を藩士が殺傷した事件。 や薩英戦争(さつえいせんそう)と、薩摩をめぐる緊迫した情勢の中、島に流された2年後、罪を許され薩摩に戻ります。
その後は大久保利通とともに薩摩藩のリーダーとして、倒幕に向けて活躍します。
1866年、38歳のとき薩長同盟(さっちょうどうめい)を締結します。
また、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の江戸総攻撃の際に、信頼していた勝海舟(かつかいしゅう)と話し合って総攻撃を中止しました(江戸城無血開城)。
坂本竜馬(さかもとりょうま)は西郷隆盛を「大きくたたけば大きく響き、小さくたたけば小さく響く、もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だ」と評価しました。
注3: | 薩摩藩の島津久光の行列を横切った 騎乗のイギリス人を藩士が殺傷した事件。 |
大久保利通との別れ
しかし、朝鮮を開国させる使者として、朝鮮行きが決まりかけていたところに、岩倉使節団(いわくらしせつだん)として欧米を視察し帰国した大久保利通らが内政優先を唱え、決定を覆します。
この明治六年の政変で、西郷は明治政府を去り、故郷鹿児島に帰ります。
後に薩摩の私学校の不平士族に促されて挙兵し、新政府軍と戦いますが、政府軍に敗北し、最期を迎えます(西南戦争)。
上野の銅像
銅像の原画は1878年にイタリア人銅版画家キヨソーネ(キオソーネ)によって描かれたものですが、西郷の写真でなく、弟の従道(つぐみち)、従弟の大山巌(おおやまいわお)の写真を基に描いたものです。なぜなら、西郷は写真嫌いで、生前の西郷の写真は残っていなかったからです。
西郷(隆盛)の銅像の作者は高村光雲(たかむらこううん)、傍らの犬の作者は後藤貞行(ごとうさだゆき)です。
1898年の除幕式の日、妻のイト(糸子)は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」と言ったそうです。

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プロジェクト新・偉人伝 著作・編集.『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝 30(西郷隆盛)』
ポプラ社 2010 【Y3-N10-J63】
酒寄雅志監修 小西聖一著『西郷隆盛と大久保利通 : 新しい時代、明治の礎となって』(NHKにんげん日本史)
理論社 2005 【Y3-N05-H40】高野尚好監修『人物なぞとき日本の歴史 6 (幕末~明治時代前期)』
小峰書店 2008 【Y2-N08-J104】 pp.18-21 「西郷隆盛」
司馬遼太郎『翔ぶが如く』新装版 1~10(文春文庫)
文藝春秋 2002 【KH555-G1468】