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1863年8月18日、尊王攘夷(そんのうじょうい)の高まりを恐れた幕府は、公武合体の立場を取る薩摩藩や会津藩などに、長州藩を京都から追放させた(八月十八日の政変)。長州藩に同調していた三条実美(さんじょうさねとみ)などの公家も京都から追い出された(七卿落ち)。
七卿顕彰会編『七卿回天史』 大日本雄弁会講談社昭和17 (1942) 【210.58-Si575s】
1864年7月19日、長州藩の攘夷派は京都御所の蛤御門(はまぐりごもん)において、薩摩・会津・桑名藩などと衝突し、敗れる(蛤御門の変(はまぐりごもんのへん))。朝廷の意を受け、幕府は長州征討を諸藩に命じた(第1次長州征討)。
維新史蹟研究会編『維新史蹟図説. 京都の巻』 東山書房大正13 (1924) 【210.61-I653i】
これまで長州藩と敵対してきた薩摩藩では、西郷隆盛(さいごうたかもり)らが主流となり、幕府の弱体化や軍備の増強を考え、長州藩と敵対せず、共に手を取り幕府を倒そうと考えた。
西郷隆盛
1866年1月21日、坂本竜馬(さかもとりょうま)や中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の仲介により、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と長州藩の木戸孝允(きどたかよし)との間で薩長同盟(さっちょうどうめい)が結ばれた。これにより、その後の倒幕運動に弾みがつく。史料は、木戸が書いた内容で間違いないことを、木戸の手紙の裏に竜馬が朱で書いたもの。
東京帝国大学史料編纂掛編『古文書時代鑑 昭和7年12月31日現在』 東京帝国大学文学部史料編纂掛 大正14-昭和2(1925-1927) 【417-2】 東京帝国大学史料編纂掛編『古文書時代鑑解説. 下』 東京帝国大学 大正14 (1925) 【417-2】
第2次長州征討には、薩長同盟により薩摩藩は参加しなかった。長州藩では、高杉晋作(たかすぎしんさく)が農民や町人も加わった西洋式軍隊である奇兵隊(きへいたい)を組織し、活躍した。
高杉晋作
凶作や長州戦争、外国との貿易などで経済は混乱した。民衆は、貧富の差が無くなる「世直し」を期待し、豪商や豪農を襲う「打ちこわし」や「世直し一揆(よなおしいっき)」が起こる。 『新聞薈叢(しんぶんかいそう)』には万民が平和を楽しみ、夜の戸締まりも要らないなど「世界第一の善国」にしたいという世直しの理想が見える。
会訳社編[他]『新聞薈叢』 岩波書店昭和9 (1934) 【210.58-Ka191s-M】