倒幕まで
薩摩藩の下級武士の子として生まれました。幼なじみに3歳年上の
西郷隆盛(さいごうたかもり)がいました。
20歳のとき、藩のお家騒動に巻き込まれて父と共に処分を受けますが、許された後は、西郷と共に藩主島津斉彬(しまづなりあきら)に登用され、
尊王攘夷(そんのうじょうい)を唱える若手藩士のリーダー的存在となります。
斉彬が死に、島津久光(しまづひさみつ)が実権を握ると、利通は31歳の若さで久光の側近として公武合体(こうぶがったい)策を進める藩の政治に関わるようになります。
幕府の力が低下していくと、奄美(あまみ)から戻ってきた西郷とともに
薩長同盟(さっちょうどうめい)の締結など、藩の政治を倒幕に動かしていきます。
明治新政府での活躍
明治新政府では、
1871年、41歳のとき、
岩倉使節団(いわくらしせつだん)の副使として欧米を視察します。
西洋の進んだ技術や文化を見て衝撃を受けました。
ドイツの首相ビスマルクから国をまとめあげた話を聞き、日本でも西欧に追い付けるのではと思いました。
帰国後は、強い権限を持つ内務卿(ないむきょう)として富岡製糸場(とみおかせいしじょう)を作るなど、殖産興業による日本の近代化に向けて尽力しました。
一方、利通が欧米視察中に明治政府では、西郷隆盛らが武力で韓国を開国させようとする
征韓論(せいかんろん)を唱えます。国内の政策を重視する利通らと対立した西郷は、敗れて政府を去ります。
利通は新政府に対する不平士族の乱を鎮める側の立場でしたが、最大かつ最後の反乱は、かつての親友西郷隆盛と戦った西南戦争でした。