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1871年11月、不平等条約改正の交渉のため、岩倉具視(いわくらともみ)を全権大使とする遣欧米使節団が横浜港からアメリカに向けて出発した。
使節団のコース
使節団は、木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通(おおくぼとしみち)、伊藤博文(いとうひろぶみ)らの副使の他、書記官や約50人の留学生など、107人で構成された。中には津田梅子(つだうめこ)など女子留学生もいた。
徳富猪一郎『岩倉具視公』 民友社昭和7 (1932) 【618-78】
サンフランシスコに到着後、1872年2月にはワシントンで大統領と会い、条約改正の交渉に当たる。しかし、国力の差から改正が難しいことを知り、欧米各国の制度・文物の調査研究のための観光に専念した。使節団の公式記録である『特命全権大使米欧回覧実記』にも岩倉による「観光」の字が見える。
久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記 第1篇 米利堅合衆国ノ部』 博聞社明治11 (1878) 【34-88】
使節団は、アメリカの後、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリアなど12か国を訪問して1873年に帰国した。イギリスでビスケット工場を見学した日の記録には、「ビスコイトは二度焼煎餅」の意味だと書かれている。
久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記 第2篇 英吉利国ノ部』 博聞社明治11 (1878) 【34-88】
使節団は開催中のウィーン万国博覧会にも立ち寄った。ウィーン万博には、日本パビリオンや日本庭園も出展された。
久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記 第5篇 欧羅巴大洲ノ部 下』 博聞社明治11 (1878) 【34-88】
使節団の帰国後、日本は国力の充実に努めることとなる。
多田好問編[他]『岩倉公実記. 下巻』皇后宮職明治36 (1906) 【34-282イ】pp.17 具視帰朝の事