国立国会図書館国際子ども図書館
開館10周年及び国民読書年記念展示会
Children's Books Going Overseas from Japan

国立国会図書館 国際子ども図書館のロゴ

第三部 特別コーナー

サダコ 実話から海外の子どもの本へ

サダコストーリーの始まり

広島の平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルである佐々木禎子さん(1943~1955)。2歳で被爆して10年後に白血病を発病し、病床で千羽鶴を折り回復を祈りながら亡くなったという実話は、子どもの本にも書かれ国内で広く知られている。海外では、広島に関するジャーナリストのルポルタージュに触発された作家がこの話を子どもの本の形で発表し、反核・平和運動の高まりに合わせ世界各国で翻訳され、広く知られることとなった。

つまり、サダコストーリーは日本の作家による作品が翻訳・出版されたという流れとは異なり、 佐々木禎子さんの実話に触発された海外の作家が「サダコと折鶴の物語」として新たに語ることにより海外へ広く伝播していったのである。そしてそれらの作品が日本語に翻訳され出版されている。伝播のきっかけとなったのは、次の2作品である。

“Sadako will leben!”No.253)(邦訳『サダコは生きる』No.255、『サダコ』No.256

“Sadako and the thousand paper cranes”No.257)(サダコと千羽鶴:邦訳なし)

いずれの作品にも「折鶴を千羽折れば願いがかなう」と信じ、病床で鶴を折り続ける禎子さんの姿が、想像を交えて描かれている。

“Sadako will leben!”(サダコは生きる No.253

オーストリアの作家カール・ブルックナー(Karl Bruckner, 1906~1982)は、1961年、本書によりウィーン児童図書賞及びオーストリア児童ヤングアダルト文学賞を受賞。1962年、1964年、1966年に国際アンデルセン賞にも推薦された。発表当初からオーストリアやドイツでベストセラーとなり、ヨーロッパを中心にアメリカ(No.254)など世界各国で翻訳された。日本では1963年に翻訳されるも絶版となっていたが、2000年に改訳復刊された(No.256)。

“Sadako and the thousand paper cranes”(サダコと千羽鶴 No.257

カナダ出身の作家エリナー・コア(Eleanor Coerr, 1922~2010)は、1949年に「オタワ・ジャーナル」の記者として来日し、1950年に広島を訪問。1960年代に広島を再訪して禎子さんの話を知り、その後禎子さんの同級生が編集した追悼文集『こけし』を基にこの物語を書いて1977年に出版。西オーストラリア図書賞及びOMAR賞を受賞した。この作品は、現在、「サダコストーリー」として世界で最も読まれている作品だと言われている。スウェーデン(No.258)、フランス(No.259)、中国、スペイン、ロシアなど多くの国で翻訳された。

サダコストーリーの広がり

カール・ブルックナーとエリナー・コアの作品によって世界に知られたサダコストーリーは、近年も世界で伝えられ続けている。1990年代には、那須正幹のノンフィクション『折り鶴の子どもたち:原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち』(No.265)の翻訳がアメリカで出版された(No.266)。また、エリナー・コアの“Sadako and the thousand paper cranes”(サダコと千羽鶴 No.257)を原作とし、コルデコット賞受賞画家のエド・ヤングが絵を描いた絵本“Sadako”No.260)によって、この話がより広まったと言われている。この絵本はアメリカで出版され、日本(No.261)、ドイツ(No.262)、オランダ、スウェーデンなどで翻訳された。2000年代には、インドでもサダコストーリーの絵本(No.263)が出版され、パキスタンで出版された絵本が日本で翻訳された(No.264)。

サダコストーリーは、絵本や読み物になっただけではなく、学校の授業で紹介されたり、モンゴルでは歌になったりし、またアメリカではサダコ像が建立されて公園になるなど、多様な形で世界に伝わっている。

著作権の関係上、本電子展示会に写真を掲載していない資料もあります。