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(♪) ついにその日、ハーネマンは缶から卵をとりだして、そうっと自分のエプロンにくるみ、そのままあたたかいストーブのそばにすわりました。ふいに、カチッと音がしました。大人がワインを飲むときにグラスをあわせるような音です。卵から雄鶏ペーターが出てきて、すぐに、こんにちは! といいました。

(♪) そこでハーネマンはいいました。こいつ、きっと卵を産むだろう。そうすれば、雄鶏ペーターの大家族ができる。けれどもお母さんは、そんなこと、なんの意味もない、といいました。ふいにハーネマンは、雄鶏ペーターは「クラ」ができるんだ、と気がつきました。つまり、雄鶏ペーターの喉の下にある肉垂れをくすぐってやれば、クラ-クラ-! というのです。そこへ子どもたちがやってきました。みんなは一人ひとり麦わらで喉の下の肉垂れをくすぐって、「クラ、クラ」と言わせました。雄鶏ペーターは笑いころげて、「クラ、クラ、クラ、クラ、クラ、クラ、クラ、クラ」と言いつづけました。

(♪) それで、ハーネマンは、お母さんに、どんなぐあいにまわすのかを尋ねてから、そのねじを三回まわしました。お母さんは、このように右まわりにまわすのだといいました。ハーネマンが三回まわすと、雄鶏ペーターは古典バレエのように踊りました。

(♪) 子どもたちは雄鶏ペーターのあとをずっと見送り、それからおたがいに顔を見合わせて、悲しそうな、驚いた顔をしました。びっくりして笑うものもいました。ハーネマンは、泣いてしまいました。けれども雄鶏ペーターはもうもどってきませんでした。そこへお母さんがやってきて、起こったことのすべてを聞くと、雄鶏ペーターが産んだ卵はまだたくさんあるのだから、と子どもたちを慰めました。そして、卵を一つずつくれました。その卵は、雄鶏ペーターが入っていたのとほとんど同じ卵でした。

(♪) ハーネマンは高く高くあがり、山を越え、海を渡り、ついに見知らぬ島に降り立ちました。動物がいっぱいいましたが、たがいに食いあうのではなく、みな友だちでした。この島があの楽園なんだ、とハーネマンは気がつきました。ふいに、ハーネマンは、象とヒトコブラクダのあいだを、あの極楽鳥が飛んでいるのを見つけました。極楽鳥はここが自分の家のようにふるまい、ハーネマンにチョコレートがどこにあるか、といったことなどを教えてくれました。食べ物だけでなく、ブランコも、魔法使いも、ラジオも、地下鉄も、ハイウェイも、赤い自動車も、なんでも尽きることなくありました。

(♪) ハーネマンは、小さなロバにまたがりました。立派な馬に堂々と背筋を伸ばしてまたがっている教師の傍らで、なんとも不恰好なことでしたが、ハーネマンは乗れるだけでうれしかったのです。けれども、ハーネマンが前に進もうとすると、ロバはとつぜん棒立ちになりました。鞭を当てると、振り落とそうとします。動物を調教するのに鞭はだめだ、やさしく話しかけるか、砂糖のひとかけらをやるかしなければいけないよ、と教えられました。

(♪) だけどね、ここへはいっぺん来たら、もう帰れはしないんだ。家にとどまっているか、それとも楽園にいるか、どちらかなんだって。ママも手紙を書いてよ。だって、ぼく、帰れないんだから。そして、この極楽鳥にことづけておくれ。ママのハーネマンより」お母さんが台所で仕事をしていると、窓を極楽鳥がノックしました。お母さんは、泣いて喜びましたが、やがてとても悲しくなりました。楽園へは喜んで行きたいとおもうけれど、お父さんを残しては行けません。お母さんはとにかくハーネマンが生きていたことを喜び、それに、楽園で仲良しの乗馬教師やざんばら髪のおじさんといっしょであることを喜んで、長い手紙を書きました。

(♪) 牧場の楽園。ハーネマンの手紙の話を聞いた子どもたちは、みんな楽園へ行きたくなりました。そして、お母さんに、どうやってハーネマンが楽園へ行ったのか、尋ねました。けれども雄鶏ペーターの卵から極楽鳥を孵したものは、結局みんな死ななければならないということを聞いた子どもたちは、とても悲しくなって卵をもって家に帰りました。やがて、エルンストという一人の少年が、楽園はそんなに遠くはないはずだから、極楽鳥なしでも行けるのではないかと思いたちました。みんなも行きたがりましたが、エルンストは自分のお母さんとエルゼというリボンをいっぱいくっつけた好きな女の子と、三人だけで行くことにしました。

「ほら、ぼくたち、もう楽園のまんなかにいるよ。見てごらん、空を。あれは金だよ」エルンストはそういいました。エルゼが牛の糞を踏めば、それは楽園の蜂蜜プリンだというし、向こうから牛がやってくれば、ほら乗馬用の馬が来た。農夫がやってくるのを見れば、あれはハーネマンの手紙にあった楽園のおじさんだというしまつです。

(♪) エルンストが近寄ってくるのを見た牛の一頭が、スペインの闘牛のように尻尾をピンと立て、頭を低くし、角を立てて、モーッとうなりながら突っ込んできました。エルンストは慌てふためいて一目散に逃げ、楽園の門から外へ出ました。そして牛のほうに振り返って、いいました。「ぼくたち、ただ楽園ごっこをしていただけなんだよ。おまえは乗馬用の馬なんかじゃないってこと、知ってるさ」

(♪)「お母さん、見えないのかい? そこにいるのはお百姓だよ。お百姓が鞭をもっているんじゃないか!」「あら、でも、ほら、ざんばら髪のおじさんも来るわ」「ちがうよ。下働きの男だよ。ぼくがもうちょっとでやられそうになった牛に口駕篭をはめようとしてやってきたんだよ。ああ、たいへんだ。心配で、ぼく、もう死にそうだ!」それを聞くと、お母さんたちもやっとのことで出てきました。そして、「楽園から出るのは残念だったけれど、あなたが心配するから出てきたのよ」といい、さらにいいました。「いっぺん嘘をついた人のいうことは、たとえほんとうのことをいっていても、もう信じないものよ」

(♪) お母さんが蚊を叩こうとすると、エルンストはいいました。「待って。ぼく、もう嘘はつかない。その蚊は楽園からやってきたってことが、ぼくにははっきりわかるんだ。だから雄鶏ペーターの卵を孵すことができるかもしれない」エルンストがあまりにもきっぱりとそういうので、エルゼは痛みを忘れました。そこで三人はそのままそうっと家に帰りました。蚊はエルゼのうなじを刺したまま、血を吸いつづけていました。エルンストが雄鶏ペーターの卵をもってくると、たちまち蚊はそれにとりつきました。エルンストは、卵を窓辺においてやりました。

(♪) エルンストが乗り込むと、蚊の飛行機はただちに窓から飛び出し、子どもたちが手を振って見送るなか、あの牛の牧場を越えて飛び、とうとうほんとうの楽園へ行ってしまいました。楽園に着くと、すぐに調教師が飛行機からおろしてくれました。エルンストがおりたつと、飛行機はばらばらになり、蚊は飛び散っていきました。みんなに紹介され、やがて、エルンストは、自分のふるさとにも楽園があることを話し始めました。「家のそばの野道を歩いていくと、楽園への入り口があって‥‥」ざんばら髪のおじさんの顔がこわくなったとおもうと、叫びました。「嘘をついている!」

(♪)「ちょっと冗談をいっただけさ。ほんとうは汚い牛の牧場なんだ。そこでは乗馬用の馬が‥‥」たちまち煙が出始めました。「いや、その、牛が、学校へ行っていて‥‥」また煙。ざんばら髪のおじさんが見えなくなったほどの、すごい煙でした。煙がすこしおさまってきたところへ、ハーネマンがやってきました。握手して、エルンストがやってきたことに大喜びです。どうやって来たのかと、尋ねました。

(♪) ハーネマンは、長い手紙をお母さんにあてて書きました。「楽園でもこんなにたのしいことは初めてです。子どもたちみんなに、ここへ来るよう伝えてください。とくに雄鶏ペーターの卵をもっているものは、みんな楽園へ来るといいよって、伝えてください」と。
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クルト・シュヴィッタース(1887–1948)
ケーテ・シュタイニッツ(1889–1975)作\
クルト・シュヴィッタースは1887年にドイツのハノーヴァーに生まれる。
ハノーヴァーの美術工芸学校で学んだ後、1909年から1914年までドレスデンとベルリンのアカデミーで学ぶ。第一次大戦では兵役をハノーヴァーの兵営事務室で終え、終戦まで製鉄所の機械製図工として働く。1920年ハノーヴァーで建築学を学ぶ。
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表現主義やキュビズムに依存していたシュヴィッタースであったが、1918年に「すべての価値は、相互関係によって成り立ち、題材に対するあらゆる制限は、一面的で狭量だ」と述べて、やがて、この見解から、考え見つけうるあらゆる題材を芸術的に配置する、いわゆるメルツ芸術(Merzkunst)が生まれた。(Merzという言葉は、彼の最初のメルツ作品となった“コラージュされた断片Kommerzbank”から取ったものである。)1918年から展覧会が開かれ、1919年から文学作品の出版も始める。「楽園の物語」を出版したアポス出版は、彼が児童文学のために自ら設立した出版社であった。1920年には最初のメルツ建築を手がける。1921年、ラウール・ハウスマン(Raoul Hausmann)に刺激された音響詩「原ソナタUrsonate」が誕生する。
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シュヴィッタースとダダイズムの関係は明確でないが、シュヴィッタースは芸術を政治に結びつける意志がなかったので、ベルリンのダダイストたちから拒絶されていた。しかし、他のダダイストたち、ハンス・アルプ(Hans Arp)、テオ・ファン・ドウースブルグ(Theo van Doesburg)、トリスタン・ツァラ(Tristan Tzara)とは一緒に仕事をして、ダダの宣伝をしている。
1930年から、シュヴィッタースはしばしばノールウェイに旅行していたが1937年に移住した。彼の造形作品は、ナチスによって「退廃芸術」というレッテルをはられ、文学作品は焚書された。ドイツ軍のノールウェイ侵略のため息子とともにイギリス亡命。亡くなるまで風景画、肖像画で生活の糧を得た。
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芸術の境界を広げることを切望していたので、彼の作品はジャンル分けされて批評されることはない。彼の子どもの本があまり知られなかった原因もそこにあるかもしれない。すべての素材、馴染みのあるものもないものも、メルツ化することが、彼の“ものがたり”の目的であった。シュヴィッタースは、子どもにはこれらの要素を満載した物語りや絵が通じるという信念があったのかもしれない。「楽園の物語」は、彼の創作信念がそのまま投影した、モダニズムの時代の芸術家の子どものための貴重な作品である。