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(♪) すると、あたらしいランプはわたしにいった。「あんたはおばかさんね、あんたの芯はほんのかすかに燃えてるだけよね。そこへいくと、わたしからはものすごい光が流れるのよ。だって、わたしは空に光る稲妻と親戚ですからね! わたしは電気で光る経済的な電球なのです!」

(♪) ステアリンろうそくがおずおずと口をはさんだ。「あなたはいったわね、あたらしいランプのなかには50本ものろうそくがともってるらしい、って。あなたはだまされたのよ。ろうそくなんか一本も見えないじゃありませんか!」

(♪) コンマ、ピリオド、一行一行の文章を曲がったハンマーがたたきだす。とつぜん機械が反対側にいった。半分が右に動いた…どうしたんだ? なぜなんだ? なんだかさっぱりわからない! アンダーウッド社製のタイプライター

(♪) 娘たちが川に感謝して頭を下げ音をたてながら水くみに、石だたみをあるいていったものさ。水くみ場のちかくにくると、川にふかぶかと頭をさげたものだ。「こんにちは、母なる川よ、お水をくませてくださいな!」

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サムイル・マルシャーク(1887–1964)作
ウラジーミル・レーベジェフ(1891–1967)絵\
1917年のロシア革命を経てソビエト社会主義共和国連邦が成立すると、新しい国を背負って立つ子どもたちのための文学の創造が始まった。マルシャークは、詩や児童劇、翻訳などで多くの作品を発表するとともに、児童文学の指導者として活躍し、ゴーリキーやチュコフスキーらとソビエト児童文学の基礎作りに大きな役割を果たした。
モスクワ南方のヴォロネジ市に生まれ、父はユダヤ系技術者だったため一家の暮らしは貧しかった。幼少の頃から詩作の才能を発揮して、高名な評論家スターソフに認められ、その縁でゴーリキーと出会い、文学への道が開かれる。1912年、ロンドン大学に留学した。
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1917年の革命後は、戦災孤児のための子どもの町や子ども劇場を創設し、児童劇の執筆で児童文学の仕事を始めた。1922年、ペトログラードの就学前教育研究所で児童文学のサークルを主宰し、多くの作家を育てた。1924年から国立出版所児童書部の文学の責任者を務め、1934年の第一回全ソ作家大会では特別報告「小さな人たちのための大きな文学」を行っている。
マルシャークの詩は、明るく、簡潔で、透明感があり、ユーモラスである。多くの作品が繰り返し出版され親しまれてきた。スラヴの昔話をもとにした児童劇『12の月』(1943年)は、『森は生きている』という邦題で日本でもよく知られている。
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挿し絵を描いたレーベジェフはソビエトの絵本の黄金期を代表する画家。ペトログラードで生まれ、芸術アカデミーなどで学んだ。革命後の1920年から1922年、ペトログラードの「ロスタ(ロシア通信社)の窓」と呼ばれる街頭に貼り出された政治宣伝のポスターの制作に従事した。1924年から国立出版所児童書部の美術責任者となる。画家としては、永年にわたってマルシャークと“黄金のコンビ”を組んで絵本の可能性を追求し、1920年代には『サーカス』、『アイスクリーム』、『荷物』、『きのうと今日』など、多くの傑作を生み出した。しかし、ロシア・アヴァンギャルドの流れを汲む、自由で風刺とユーモアに満ちた斬新なレーベジェフの絵は、社会主義リアリズム路線とは相容れず、1936年3月にソ連共産党の機関紙「プラウダ」紙上で厳しい批判を浴びた。そして、1930年代終わりから『12の月』(短編1943年)や『しずかなおはなし』(1958年)に見るように、画風は叙情的なものへと変わっていった。
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『きのうと今日』(1925年)は、人間生活で使われてきた必需品の新旧の交代の経緯が物語られている。電球にその座を奪われたランプ、便利なタイプライターに負けたペン、蛇口をひねれば瞬時に水の出る水道にはかなわない水汲みの天秤棒、こういった過去のものが擬人化されて、思い出を回想し、新しいものに対して悔しさをぶつける。哀感のこもった、リズミカルで見事な語り口の詩に負けずに、挿し絵のほうにもさまざまな工夫が凝らされている。