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書誌

解題

(♪)「いいえ、ご主人さま」とねこは言った。「私を食べないで。私に長靴をはかせてください。乗馬にはくような長靴を。そうしたら、いい暮らしが出来ること請け合います」




(♪) 粉ひきの息子はこうしてお城の主となり、たいそう優雅で豪華なもてなしをしたので、食事の後、王さまはにこやかに笑いながら、こう言った。「カラバ侯爵どの、お手をどうぞ、予の持ち物は、何であれ、そう、わが娘もふくめ、みなあなた様のものですぞ」 翌日、粉ひきの息子は、お姫さまと結婚した。ねこは、ぴかぴかの長靴をはいて、花婿の付き添いを務めた。というのも、カラバ侯爵が、土地に麦畑、お城に花嫁を手に入れたのは、なにもかも、ねこのおかげであったからだ。
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ウォルター・クレイン(1845-1915)
Walter Crane\
英国リヴァプール生まれ。父親は肖像画家のトーマス・クレイン。 幼い頃から秀でた画才を現し、それを豊かに育む環境に恵まれ、13歳で当時ロンドン最大の製版所であったリントンの工場へ見習として入る。当時、“きつつき”とあだ名された製版工たちは、昼間は窓に向かって一列にならび、夜はガス燈を真中に丸いテーブルで仕事をしていた。クレインは昼間は必死に技術を習い、夜になるとリントンの息子と近所の寺院でかくれんぼしたり、近くの川に船を見に行ったり、本を見せてもらったりしていた。近所の動物園で3年間しつづけた動物のスケッチが後の絵の基礎となる。
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16歳でプレス・アーチストとして今の報道写真家の役割をこなすようになるが、空想力よりも正確さを第一に求められるこの仕事には、飽き足らない気持ちを抱いていたようである。17歳で独立。やがて、雑誌のイラストレーターとして、写実よりも様式を優先し、独自の輪郭の太い明暗を線影でつけた質感と、すばらしい表現力をもつアーチストとして活躍する。そして、次第に空想的題材や文による規制が少ない子どもの本に惹かれていく。
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1863年、若い製版者で色彩印刷を深く追求していたエドモンド・エヴァンスと出会い、その協力のもとに、当時の印刷所が持っていた「色が鮮やかなほど子どもに適す」という単純な固定観念を打ち砕く。そして、自然学者ほどの精密さにユーモアと愛情を加味して動物を主人公にした子どもの本を制作する。ヴィクトリア時代の絵本の転換期における子どもの視点を重視した、子どもの為の最上のデザインをめざし、やがてイギリス絵本黄金期のリーダーとなる。また、ジャポニズムの影響のもとに、江戸絵本の同面異時の表現を、大胆に画面構成のなかに取り入れた。
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クレインを画家としての側面からみてみると、15世紀イタリアルネサンスの影響を強く受けた作品、「愛と聖域」(1870)や「ヴィナスの再来」(1877)がまず注目される。1882年には、モリスのつづれ織りのもととなるグリム童話集の「鵞鳥守娘」を木口木版で出版。縁取りの向こうの不思議な幻想世界は、アール・ヌーヴォーの代表的作品とされている。その後、世紀末芸術の本質である装飾と実用、または美学と機能の追求者としてアーツ・アンド・クラフツ運動に参加、理論書を著す。社会主義者としての多くの作品もあるが、一連のメーデーのポスターが当時の英国の知的階層の関心を表している。また、ドイツの雑誌「ユーゲント」の表紙などを通じて海外へも大きな影響を与えた。