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書誌

題名:長ぐつをはいた猫
原題:Puss In Boots
作画者:ウォルター・クレイン絵
版元:ロンドン:ジョージ・ラウトリッジ・アンド・サンズ出版
刊行年:1875年(1873年初版)
判型:8ページ 248×188mm
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解題

粉ひきが遺言で3人の息子に、猫とロバと水車小屋を譲るといい残し、3番目の息子は猫をもらう。この猫の活躍でお城も手に入り、王女様と結婚することができたのは、すべて猫のおかげだった。ウォルター・クレインの“トーイ・ブックス”として1873年より出版され、その後、1895年にジョン・レイン社からクリスマス向けに再版された「長靴をはいたねこ」の見返しのデザインに登場する粉屋の息子は、クレイン自身の若い頃の自画像と言われる。
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長ぐつをはいた猫
「長ぐつをはいた猫」の表紙
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(♪) 長ぐつをはいた猫
長ぐつをはいた猫
長ぐつをはいた猫 1-2ページ
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(♪) 粉ひきが、いまわのきわに言い残した。3人の息子に、ねことろばと、水車小屋を譲ると。上の息子は水車小屋、中の息子はろばをもらい、3番目の息子はねこだった。「ああ! どうしよう! これじゃ飢え死にするしかない。このねこを食べるのでないかぎり」
(♪)「いいえ、ご主人さま」とねこは言った。「私を食べないで。私に長靴をはかせてください。乗馬にはくような長靴を。そうしたら、いい暮らしが出来ること請け合います」
長ぐつをはいた猫
長ぐつをはいた猫 3ページ
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(♪) こうしてねこは長靴をはき、出かけて行った。街道のそばで、りっぱなウサギをつかまえ、宮殿に持っていって、王さまに差し上げた。「わが主人カラバ侯爵からの贈り物にございます」 毎日毎日、ねこはえものを捕まえ、侯爵からと言って 王さまに届けた。
長ぐつをはいた猫
長ぐつをはいた猫 4-5ページ
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(♪) ある朝、ねこはご主人に言った。「今日は川べりで、水浴びをしてください。忘れないで、あなたの名前はカラバ侯爵ですよ。あとは私に任せてください」 王さまが川沿いの道を通りかかると、叫び声が聞こえた。「助けて、助けて、死んでしまう! カラバ侯爵がおぼれる、ああ、ご主人さま!」 王さまは、救助のために護衛を使わされた。かくして、粉ひきの息子は、助け上げられ、極上の服を着せられて。
長ぐつをはいた猫
長ぐつをはいた猫 6ページ
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(♪) 体がすっかり乾くと、 王さまからお姫さまに紹介された。そして、宮廷の4頭立て馬車に乗せられた。たくらみがうまくいったのを見届けたねこは、先回りして麦畑で刈りいれしている人々にこう言った。「まもなく王さまがおいでになるから、このあたりの土地はカラバ侯爵の領地ですとお答えするのだぞ。さもなくば、一生後悔することになる。」 ねこは、行く先々で、同じようにふれ回り、侯爵の名をあたりに広めた。
長ぐつをはいた猫
長ぐつをはいた猫 7-8ページ
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(♪) とうとうねこは、りっぱなお城にたどりついた。そのお城もあたりの土地も、人食い鬼のものだった。ねこは鬼にむかって、言葉巧みに持ちかけた。「大きいものでも小さいものでも、どんなものにも姿を変えられるそうですね」 鬼がネズミになってみせると、ねこはぱくりと飲み込んだ。ちょうどその時、王さまの馬車の音がした。ねこは急いで玄関に出ていき、呼び鈴が鳴るまえに王さまをお迎えした。「カラバ侯爵が、王さまのおいでを歓迎もうしあげます。」
(♪) 粉ひきの息子はこうしてお城の主となり、たいそう優雅で豪華なもてなしをしたので、食事の後、王さまはにこやかに笑いながら、こう言った。「カラバ侯爵どの、お手をどうぞ、予の持ち物は、何であれ、そう、わが娘もふくめ、みなあなた様のものですぞ」 翌日、粉ひきの息子は、お姫さまと結婚した。ねこは、ぴかぴかの長靴をはいて、花婿の付き添いを務めた。というのも、カラバ侯爵が、土地に麦畑、お城に花嫁を手に入れたのは、なにもかも、ねこのおかげであったからだ。

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長ぐつをはいた猫
「長ぐつをはいた猫」の裏表紙
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10ページには朗読はありません

作者について1/4

ウォルター・クレイン(1845-1915)
Walter Crane\

 英国リヴァプール生まれ。父親は肖像画家のトーマス・クレイン。 幼い頃から秀でた画才を現し、それを豊かに育む環境に恵まれ、13歳で当時ロンドン最大の製版所であったリントンの工場へ見習として入る。当時、“きつつき”とあだ名された製版工たちは、昼間は窓に向かって一列にならび、夜はガス燈を真中に丸いテーブルで仕事をしていた。クレインは昼間は必死に技術を習い、夜になるとリントンの息子と近所の寺院でかくれんぼしたり、近くの川に船を見に行ったり、本を見せてもらったりしていた。近所の動物園で3年間しつづけた動物のスケッチが後の絵の基礎となる。

ウォルター・クレイン(1845-1915) Walter Crane 英国リヴァプール生まれ。父親は肖像画家のトーマス・クレイン。幼い頃から秀でた画才を現し、それを豊かに育む環境に恵まれ、13歳で当時ロンドン最大の製版所であったリントンの工場へ見習として入る。当時、“きつつき”とあだ名された製版工たちは、昼間は窓に向かって一列にならび、夜はガス燈を真中に丸いテーブルで仕事をしていた。クレインは昼間は必死に技術を習い、夜になるとリントンの息子と近所の寺院でかくれんぼしたり、近くの川に船を見に行ったり、本を見せてもらったりしていた。近所の動物園で3年間しつづけた動物のスケッチが後の絵の基礎となる。

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作者について2/4

 16歳でプレス・アーチストとして今の報道写真家の役割をこなすようになるが、空想力よりも正確さを第一に求められるこの仕事には、飽き足らない気持ちを抱いていたようである。17歳で独立。やがて、雑誌のイラストレーターとして、写実よりも様式を優先し、独自の輪郭の太い明暗を線影でつけた質感と、すばらしい表現力をもつアーチストとして活躍する。そして、次第に空想的題材や文による規制が少ない子どもの本に惹かれていく。

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作者について3/4

 1863年、若い製版者で色彩印刷を深く追求していたエドモンド・エヴァンスと出会い、その協力のもとに、当時の印刷所が持っていた「色が鮮やかなほど子どもに適す」という単純な固定観念を打ち砕く。そして、自然学者ほどの精密さにユーモアと愛情を加味して動物を主人公にした子どもの本を制作する。ヴィクトリア時代の絵本の転換期における子どもの視点を重視した、子どもの為の最上のデザインをめざし、やがてイギリス絵本黄金期のリーダーとなる。また、ジャポニズムの影響のもとに、江戸絵本の同面異時の表現を、大胆に画面構成のなかに取り入れた。

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作者について4/4

 クレインを画家としての側面からみてみると、15世紀イタリアルネサンスの影響を強く受けた作品、「愛と聖域」(1870)や「ヴィナスの再来」(1877)がまず注目される。1882年には、モリスのつづれ織りのもととなるグリム童話集の「鵞鳥守娘」を木口木版で出版。縁取りの向こうの不思議な幻想世界は、アール・ヌーヴォーの代表的作品とされている。その後、世紀末芸術の本質である装飾と実用、または美学と機能の追求者としてアーツ・アンド・クラフツ運動に参加、理論書を著す。社会主義者としての多くの作品もあるが、一連のメーデーのポスターが当時の英国の知的階層の関心を表している。また、ドイツの雑誌「ユーゲント」の表紙などを通じて海外へも大きな影響を与えた。

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